~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (4-09)
額田女王ははげしい不安な思いに襲われて眼覚めた。正しく言うなら、眼覚めた瞬間、大きな不安な思いに包まれている自分を発見したと言うべきかも知れない。額田は、ひどく疲れていた。何日も昼夜の区別なく神事に仕えていたが、漸くそれが明けて、昨夜遅く館に帰って来たのである。そしてすぐに寝に就いたが、それからまだ何程もっていない。
それにしても、こも不安な思いはどこから来たものであろうか。居ても立ってもいられぬような思いである。額田は寝台を離れると戸口に立った。夜風が寝衣の肌に寒かった。戸外には薄ら明りが漂っているが、暁方の光ではない。雲をとおして月光でもほのかに漂っているのであろう。
額田は自分の胸騒ぎを押さえるようにして、両の腕で己が胸を抱いていた。その時、そこから見えている築山つきやまの向こうを、一人の男が歩いて行く姿が眼に入った。瞬間、額田はその人物が中大兄皇子に違いないと思った。見間違う筈はなかった。
ここところ毎日のように、朝臣たちは廟堂びょうどうに集まって何事かを審議しており、時にはそれが深更にまで及ぶことも珍しくなかった。この時刻にこうした所で権力者の姿を見るのは、そうした集まりからの帰りなのかも知れないと思われた。それにしても中大兄皇子の寝所へは宮殿の廻廊づたいに行ける筈である。妃たちの館に行くにしても同じ事である。
深夜、中大兄皇子がただ一人で広い王宮の庭の片隅を歩いていることは、どう考えてもいぶかしいことであった。額田はいまの自分を襲っている不安な思いを、そうした中大兄皇子と切り離して考えることは出来なかった。
額田は部屋に戻ると、衣服を改め、顔を直した。そうしたことのために多少の時間がかかった。
館から広い庭の一隅に出た時、額田は中大兄皇子中大兄皇子の姿をとらえることを半ばあきらめていたが、それでも一応そのあたりを一巡してみないことには気がすまない思いだった。
額田は築山の右手へと廻って行った。そこから遠くに、二、三百人の者なら引見できる石で畳まれた広場が望めた。額田はその石のうてなの方に眼を当てたまま、いつまでもそこに立っていた。
中大兄皇子はそこを歩いていたのである。周囲に一本の木もない石の広場の中に置いてみると、中大兄皇子の姿は小さく、奇異にさえ見えた。中大兄はそこをぐるぐると歩き廻っていたのであった。
額田はやがてその方へ近付いて行った。中大兄は、自分の方へ近付いて来る者のあるのに気付いているのか、気付いていないのか、同じように、ゆっくると石の広場を歩き廻っている。
「皇子さま」
額田は中大兄の背に声をかけた。
「額田か」
返事はしたが、中大兄は額田の方を見向きもしなかった。
「夜分、胸騒ぎを覚えまして起き出しましたが、そういたしましたら皇子さまのお姿をお見掛けいたしました」
額田もまた、中大兄の背後に立って、その石の広場を歩き始めた。
「鬼火が見えるか」
「は?」
「鬼火が到るところで燃えている」
「は、何と仰せられます」
「鬼火が燃えている。小さい鬼火が到るところで燃えている。額田には見えまいが、中大兄には見える。こうして歩いている前にも、背後にも燃えている、沢山の鬼火だ。無数と言ってもいいくらいだ。── 鬼火と鬼火とが闘っている」
その最後の“鬼火と鬼火とが闘っている”という言葉だけが、炸裂さくれつするように強く額田には聞こえた
「皇子さま」
その額田の呼びかけにはこたえないで、
「ああ、苦しいな。中大兄には見える。鬼火が見える。払っても、払っても、見えて来る」
中大兄は相変わらず歩き廻っている。苦しいなと言われてみると、いかにも苦しそうな歩き方である。苦しさに耐えかねて歩き廻っている。そんな乱れた足の運び方である。額田もまた苦しくなった。中大兄の苦しみが、そっくりそのままこちらに伝わって来るかのように、胸騒ぎは烈しくなり、それに突き刺すような痛みが加わっている。ああ、苦しいと額田は思った。
額田は苦しいと思った瞬間、鬼火を見た。足許あしもとにまといつくように火が燃えている。と、それはやがて幾つかに割れ、その一つ一つが更に幾つかに割れ、数え切れぬほどの無数の鬼火になった。鬼火は額田を取り巻き、前後にも、左右にも、宙にも、地面にも燃えている。
「皇子さま」
額田は自分と中大兄皇子が、無数の火でさえぎられているのを感じた。額田は必死の思いで中大兄のあとから歩いていた。火の集団の中を、あちらによろめき、こちらによろめきながら歩いた。その間も、得体の知れぬ不安な思いは、刻一刻高まりつつあった。
中大兄は鬼火と鬼火とが闘っていると言ったが、確かに鬼火と鬼火とが闘っていた。火と火はお互いにぶつかり合い、一緒になって大きい火の固塊かたまりになったり、こなごなに割れ、火の粉となって、飛び去り、流れ、舞い上がり、消えたりした。
額田はそうした中を身の毛もよだつような思いで足を拾っていた。胸は張り裂けそうに苦しく、言い知れぬ痛みが心を縦横にはしっている。
「皇子さま」
額田が叫んだ時、突然、火という火は消えた。額田はよろめいて石の台の上にひざをつき、そして前のめりに倒れた。ああ! 中大兄皇子の絶叫に近い声が聞こえたと思うと、額田は中大兄の手が己が肩にかかるのを覚えた。中大兄もまた、片腕を石の台の上についていた。
二人は息づかいを荒くしていた。
「見たか、鬼火を」
「何でございます。いまの怪異は」
「知らぬ。白村江で会戦が行われたとしか思われぬ。── 勝ったか、負けたか」
中大兄は言った。その中大兄皇子の体は細かく震えていた。
2021/05/22
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