~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (5-09)
中大兄はすぐ朝臣のおもだった者を集めて、このことを議した。中大兄の心は決まっていたが、一応はかれねばならぬことであった。いろいろな意見が出たが、ちまたでは唐軍来襲の噂が もっぱらである。
それが静まり、巷の混乱が収まるまで、本営はこのまま設置しておくべきではないか。こう言う考えが圧倒的であった。すると大海人皇子が言った。恐ろしいほど大きい声であった。
中大兄皇子のお心はお決まりになっている。何を朝臣にお謀りになることがあろう。鎌足からのお指図が届いている筈である」
一座はしんとした。
「いかにも、鎌足からの使者が来た。しかし、中大兄の心は決まっていない。みなの考えを聞いて決める」
中大兄皇子は穏やかな言い方で言った。
「半島に出兵するための本営である。半島にはもはや当分出兵のことはあり得ない。なんの本営であろうか。筑紫に本営を置く必要がない以上、即刻飛鳥に引き揚げて然るべきであろう」
大海人は言った。言葉にはとげがあった。依然として一座はしんとしていた。
「それならば、大海人のいまの言葉にて決める。長くつちかって来た半島の権益は、中大兄の不明のために失われてしまった。確かに当分の間、半島出兵のことはあり得ない。本営を設けておく意味はない」
中大兄が言うと、こんどは語調を改めて、大海人皇子は言った。
「いや、敗戦に依って大海人も心の平静を失っている。お聞きにくいことを申し上げたことは許して戴きた。先に申し上げたことを詳しく申し上げると、半島出兵のための本営であり、半島作戦のための本営である。その本営の意味はすでに失われてしまっている。現在は唐軍来襲に対する備えの意味しかない。それならば大海人がここに留まっていればいい。中大兄皇子はよろしく都へ帰還なさるべきである。一国の責任者が都を遠く離れた地で、敵軍を迎え撃つということは避くべきであろう」
確かにその通りであった。今や二人の皇子が都を留守にして、ここに留まっている必要はなかった。
中大兄皇子と朝臣の主だった者が、筑紫から飛鳥の都へ帰るという発表があった日、朝臣たちの間にも、巷にも、また新しい混乱が起こった。人々はそれが何を意味するか、よく判らなかった。敵の来襲を間近に控えての本営の後退と解する者もあったし、近畿に内乱が起こりかけていて、それに対するしずめの措置と解する者のあった。いかなる想像を廻らせても、それが明るいものであろう筈はなかった。半島の敗戦ということは、今や、動かすべからざる事実であり、すべてはそれから起こって来る波紋でしかなかった。
あとに残って、筑紫における敗戦の始末を取り仕切る大海人皇子の受け持たねばならぬ仕事は多かった。動揺する兵たちも押さえなければならなかったし、ここ三年間本営の所在地として急にふくれ上がった都邑とゆうを、徐々にそれが、かつて持ったもとの姿に返さなければならなかった。たちまちにして職を失って路頭に迷う民たちも多かったので、それについての対策も樹てなければならなかった。飛鳥の還る中大兄皇子の一行は何集団かに分かれて、それぞれ深夜筑紫の港を発航して行った。夜の闇に紛れて、ひそかに出発したわけではなかったが、あとでその事を知った者たちには、一様にそのように受け取れた。いつか誰も知らないうちに、本営の首脳陣は姿を消したしまったのである。
十一月に入ると、毎日のように降雹こうひょうがあった。
指頭大の雹が夕刻になると降った。そうした中でも、どこかに引き揚げて行く民たちで街はごった返していた。馬の背に、荷車の上に、雹は音をたてて降り、時折風が吹き、天地は幽暗の中に包まれた。が、また忽ちにして、が照り、路上に散乱している木の葉や木の折れたのが異様に見えた。
巷の騒ぎが一応静まると、急に閑散とした街に兵たちの姿だけが目立った。兵の訓練は烈しく行われていた。兵たちは、一刻の休みも与えられたなかった。兵団は絶えず移動していた。一ヵ所に落ち着くことはなかった。兵たちは駐営地を変えるために行軍するか、でなければ烈しい訓練に服さなければならなかった。
大海人皇子は空っぽになった王宮の中で一切を取り仕切っていた。曽の本営の街を、純粋の軍都に切り替えねばならなかった。今や筑紫一帯のいかなる山も、丘も、入江も、敵軍を迎えて闘う砦に他ならなかった。そして一番の問題はそこに配する兵たちであった。敗戦から受けた打撃を取り除き、その動揺を防がなければならなかった。兵たちに休養を与えるな、大海人皇子は日に何回か、同じ命令を口から出した。行在所あんざいしょも、王宮の館々も、日々その姿を変えて行った。不要になった物は次々に取りこわされた。
いっこうに唐軍の来襲はないままに十二月に入った。耽羅たんらと連絡を取って半島の兵団の動きは逐一報じられることになっていたが、それらしい気配は感じられなかった。半島に出征して行ったいかなる兵団よりも強い兵団が、大海人皇子に統率されて、筑紫一帯の海浜に布陣されていた。そして何事も起こらないままに、未曾有の国難に揺さぶられた中大兄称制の第二年は暮れた。
2021/05/27
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