~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
水 城 (2-09)
額田が中大兄の召しを受けたのは、それから二、三日してからであった。額田はこの新都に移って来てから、中大兄と二人だけの時間を持ったことはなかった。それは額田がこの近江の都に移って来る日におのれに課したことであり、いかなることがあろうと破ってはならないことであった。額田は自分の健康がすぐれないことを理由にして、何回かの中大兄皇子の召しを断って来たが、今度は初めてその召しに応じて自分から王宮に出向いて行ったのであった。
暮色の迫る湖面が遠くに見える王宮内のひと間であった。額田が中大兄皇子とかい合ったのは、飛鳥の都において以来のことであった。
「珍しく、今日はすなおにやって来たな」
中大兄皇子は言った。
「今日は申し上げたいことがございまして」
額田が言いかけると、
わかっている。額田の言おうとするこよぐらい、聞かなくても判っている」
「お判りになっていらっしゃるとは思えませぬ」
すると、中大兄皇子は大きく笑って、
「尼になって、ひとりで自由に暮らしたいのであろう。そうするがよかろう。そういう額田の邪魔をする気はいささかも持っていない」
「時々、お召しのお声がかかって参ります」
「いくら召しても、いっこうに召しには応じて来ないではないか」
「これまでは、それで通って参りました。もう、そうしたことが通らなくなることでございましょう。皇子さまは現世うつしよの神におなり遊ばす」
額田が言いかけると、中大兄皇子は瞬間、眼を光らせたが、
「いつまでもいまのままでいるわけには行かぬ」
「そうでございましょう。しかも、それは極く短い時の御事かと ──」
「いかにも」
「現世の神におなり遊ばしたら、額田はもう御命令にそむこことは出来なくなります。額田は、皇子さまが神におあなり遊ばす前に、もう再びお召しにあずかることのない立場に置いていただきたいのでございます」
それから顔を上げて、
「こうした額田の気持がお判りでございましょうか」
「判っている」
「お判りになっていらっしゃるなら、何も申し上げませぬ。額田は皇子さまの輝かしいお仕事を、輝かしい時代を、民の心でたたえる歌をうたいとうございます。それ以外に額田の望みはございませぬ。そのために額田はこの世に生をけて来たのでございます。お召しを受けるような立場におりまして、どしてそのようなことを望めましょう」
「判っている」
「御都合がお悪くなると、いつも判っている、と仰せになります」
額田はこの時、不意に落涙した。中大兄皇子の前でこれまでに落涙するようなことは一度もなかったが、不意に涙がふり落ちて来たのであった。
「何を泣いている」
「額田の中の女人が泣いているのでございましょう」
額田は涙にれた顔を中大兄の方に向けたままで、
「もう、これからはこのような額田をお見せすることはないと存じます。一度だけ、お見せ致しました」
額田は言った。いかなる理由で中大兄の寵愛ちょうあいから身を引こうとしているかについては、額田は一言も説明らしい言葉は口から出さなかった。中大兄皇子にはすべてが判っているに違いなかったからである。中大兄皇子が即位した場合、皇太子の席に坐る人物は大海人皇子をおいてはなかった。その中大兄、大海人皇子の関係を考えただけでも、額田が中大兄の寵愛から身を引こうとするのは当然な事であった。また中大兄が即位した場合、何人かの妃たちも、それぞれ今までとは異なった座に坐らなければならなかった。これは額田の場合も同じ事であった。これまでは、神の声を聞く女として、曲がりなりにも自分を傷つけないで押し通すことが出来たが、これからはそういうわけには行かなかった。
2021/06/06
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