~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
近 江 の 海 (1-08)
大海人皇子はちょっと考えていたが、やがて立ち上がって部屋から出て行った。かなり長い間、額田は部屋に一人にされていた。大海人皇子は十市皇女を連れてくるために部屋から出て行ったと思われたが、そうではなかった。大海人皇子一人で帰って来た。
「十市皇女は大友皇子以外の人のところならどこへでも行くと言っている」
そう言って、大海人皇子は大きく笑った。
「つまり、大友皇子のところだけは気がすすまないということだ。いやにきらわれたものだ」
また大海人皇子は笑った。いかにもおかしくて、おかしくてまらぬといった笑い方だった。
額田もそういう十市皇女に驚いたが、しかし、十市皇女の気持が判らぬではなかった。大友皇子の鋭い眼光や、冴えた顔や、どこか荒々しく思われる体のこなしなど、年端もゆかぬ少女を怖がらせこそすれ、決して魅力とはなっていないに違いなかった。
「だが、いくら気がすすまぬといっても ──」
と大海人皇子は言った。
「他に十市皇女の相手としてふさわしい者があるのか。五、六年待てば、いま年端もゆかぬ皇子たちも若者に育つだろうが、それまで待っているわけにも行かぬだろう」
そう言われてみれば、それに違いなかった。十市皇女の配偶者の選定は限られた範囲で行われるしか仕方がなかった。そうなると、さしずめ大友皇子ということになった。
「それとも、ひよこのような稚い十市皇女の気持を尊重するか。── どちらにするかは額田に任せてもいい」
そう言われると、額田としても困ることだった。十市皇女の気持を重んずれば、大友皇子の話しは打ち切ってしまわなばならなかったが、それも軽率なことに思われた。他の皇子が成人するを待って、その妃となる道もあったが、それにしても差し当って相手として考えられるのは志貴皇子や川島皇子である・志貴皇子は十四歳、川島皇子は更に二つか三つ年齢は下である。それぞれの母の出生を考えても、大友皇子よりいいとは言えなかった。それに何と言っても、大友皇子の場合、聡明であるということと、天智天皇の第一皇子であるということが、他に替え難い魅力であった。
「額田に任せてもいいと言ったのは、十市皇女の考えでもある。自分の気持は大友皇子には向かないが、しかし、どうしても大友皇子の許に行けということであるなら行くしかないだろう。それは母親である額田に任せることにする」
「そう仰ったのでございますか」
「そう。そう言った」
額田は不意に体が小刻みに震えるのを覚えた。十市皇女の口からそのような言葉が出るとは夢にも思ってみなかったことであった。十市皇女は本当にそう言ったのであろうか。皇女は母である自分に、しかし、母として何一つ資格を持っていない自分に、己が運命を託そうとしたのであろうか。
額田の周囲を重苦しい時間が流れた。額田は今こそ自分は母でなければならぬと思った。が、母というものが、こうした場合持たねばならぬ心が判らなかった。娘の気持を大切にすべきか、あるいはそうした娘の気持など斟酌しんしゃくすることなく、母親自身が考えて、これが一番いいと思うことを押しつけるべきか。
やがて額田は二つのうちの一つを選んだ。
「わたくしは大友皇子さまと御一緒になるべきだと思います」
額田は言った。顔は青白んでいた。十市皇女の運命を大友皇子に託したのである。すると、
「大海人もそう思っている。天皇も同じ」お考えである」
大海人皇子は言った。この大海人の言葉に依って、すでにこの話が天智天皇の許に持ち出されていることを知った。
その日、額田は館に帰ると、自分は何か大きな間違いを仕出かしたのではないかという思いに襲われた。ひどく不安であった。その不安な思いは夜まで続き、その翌日も、翌々日も続いた。
2021/06/14
Next