~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
近 江 の 海 (2-10)
ただ一座の中で額田だけはこの大海人の歌に対して異なった思いを持っていた。これは一座の者には戯れの歌としか思えなかったであろうが、それは額田の心の中だけでは違った屈折の仕方をした。戯れの歌どころではなかった。大海人皇子は天智天皇に聞かせると共に、額田にも聞かせるために、この歌を作っていた。そういう意味では怖ろしい程よく出来た歌であった。人妻ゆえにと詠っていることで、相手が天智天皇の女性であるという見方をはっきりと示しており、はっきり示すことにおいて天皇をたてているわけで、そしてまたそういう女性でも自分は恋さずにはいられないと詠うことで、所詮しょせんたわむれの歌に過ぎないという性格を巧みに出していた。
額田は大海人皇子がこのような歌を作る才能を持っていようとは、これまで一度も思ってみなかったことであった。額田の歌に呼応して、天智天皇の盛ったかも知れない誤解を、大海人は大海人で解こうとしているのであった。
もう一つ額田の舌を巻いたことは、この歌が天智天皇に対して詠われていると共に、額田に対しても詠われていたことである。額田には大海人のはげしい眼が感じられた。多くの人はわたしのこの歌をたわむれの歌として受け取るだろう。しかし、たわむれを装った中にちゃんと本心も入っていることは、あなただけには判っている筈だ。そういう大海人の声が額田には聞こえて来るようであった。
宴席は額田と大海人皇子の二つの歌によって、一層浮き浮きした楽しい明るいものになって行った。蒲生野遊猟の日の夜は、近江朝の朝臣や武臣たちにとっても、妃や侍女たちにとっても、曽てなかったような無礼講の楽しいものになって行った。宴はいつ果てるとも判らなかった。
額田はひどく疲れていた。一刻も早く宴の終わることを願っていたが、なかなか終わりそうもなかった。そうしている時、額田は仰ぐともなく夜空を仰いで、思わず声をあげそうになった。
長く尾を曳いて流星が幾つか飛んだからである。額田だけが見た流星であったかも知れぬが、夜空を長い尾をひらめかして流れた青い光芒こうぼうは、額田のまぶたからいつまでも消えなかった。額田にはそれが妙に不吉に、不安に感じられた。

蒲生野遊猟の宴が果てて館へ帰ると、額田を襲っている疲労は更に烈しいものになった。すぐ床に身を横たえたが、頭だけはえて、どうしても眠りに落ちて行けなかった。
流星が額田の瞼にのこした青い光芒は、蒲生野の今日一日の行楽のすべてを、不気味な冷たい青い色に染め上げていた。不安は到るところに顔を出していた。自分の歌の心を、天智天皇が正しく受け取ってくれたという証明あかしはなかった。もしこちらの歌の心が天皇に伝わっていないとすれば、自分は大海人皇子の求愛を訴えたということになった。あるいはまた、大海人との恋の遊びを披露したという奇妙な結果になった。どちらに取られても、額田の天皇に対する気持とは凡そ遠いものになった。それから大海人皇子の歌にしても、一歩誤れば、それは天皇への挑戦であるとも言えた。あなたの女であろうとなかろうと、好きなものは好きだ、そんな歌にも受け取られかねないところがある。
そしてまたあの宴席に列した人たちも、あの席では座興のたわむれの恋歌のやりとりとして受け取ったとしても、時が経つと、その受け取り方はどう変わって行くかも知れなかった。一人の女性をはさんでの、兄天皇と弟皇子の確執がはしなくもあの席で露呈されたと見るかも知れぬ。
── そして。
額田は思わず起き上がろうとしたほどの衝撃を受けた。流星が幾つも暗い部屋の中を飛んだ思いであった。すべてが、そう受け取られても少しも不自然ではなく、むそろその方が自然に思われたからである。天智天皇と大海人皇子の二人の貴人がかい合って坐っている情景が、この時ほど、額田に不気味に怖ろしく思われたことはなかった。
2021/06/25
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