~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
兵 鼓 (1-09)
額田はその発表があってから何日間も、大海人皇子の心の内をおもんばかって、悲しみと不安で心をおののかせた。額田は自分が一番よく大海人皇子の人となりを知っていると思った。それと同様に天智天皇の人となりをも知っていた。火と水であった。天皇が火であるならば大海人皇子は水であり、天皇が水であるなら大海人皇子は火であった。片方が熟すれば片方が冷え、片方が冷えれば片方が熟するに違いなかった。そういう見方をすれば、現在天皇は火であり、大海人皇子は水であった。
額田は大海人皇子に会って、今度の人事から受けたに違いない打撃を慰めてやりたかった。
しかし、考えてみれば、大友皇子が政治の前面に押し出されて来たことは事実であったが、そのために自他共に許していた東宮としての大海人皇子の地位が揺らいだわけでも、危なくなったわけえもなかった。ただ大友皇子がふいに大きな存在として押し出されて来たために、大海人皇子の地位が、人々の眼に浮き上がって見えるだけのことであった。大友皇子は天智天皇が寵愛している第一皇子であり、大海人皇子は長く辛苦を共にして来た実弟であった。将来、天皇は己が後継者として、大海人皇子を排して、大友皇子を選ぶのではないか、少なくともそういう下心があってのこんどの人事ではないか、誰もがそう考えたがった。誰にもそういおう考えを起させるようなものがあることは確かであった。
しかし、いかにそういう考えを起させるものがあるにしても、あくまでそれは憶測‭おくそくの範囲を出ないことであって、天智天皇は全く異なった考えを持っているのかも知れないのである。ただ問題はそうおう憶測をさせるようなものが、今度の人事にはあるということであった。
人々の誰もがそのような憶測をするくらいであるから、当の本人である大海人皇子はいかなる考えを持つであろうか。額田にはそれが‭おそろしく思われた。烈しい気性の大海人皇子のことであるから、いきなり自分の地位が押しのけられ、一切の発言を禁じられたように受け取って、怒りを心頭に発しているのではないかと思われた。
額田は大海人皇子に会って、そうした心の打撃を慰め、その上で今度のことが少しも決定的な事ではなく、天皇のお考えは全く別のところにあるかも知れないということを、自分の口から大海人皇子に伝えたかった。しかし、いざ大海人皇子に会おうとすると、なかなかその機会はなかった。現在は皇子といかなる特殊な関係も持っていなかった。招かれでもしない限り、自分の方からその館に出向いて行くわけには行かなかった。
三月のある日、唐国の水量‭みずはかりが王宮の一室で公開された。このほど唐国から帰って来た黄書造本実‭きふみのみやつこほんじちが将来して来て朝廷に献じた品であった。額田もその水量なるものを見に王宮の一室に出向いて行ったが、そこで思いがけず大海人皇子と顔を合わせることが出来た。
その場には大勢の男女が居たが、額田は大海人皇子に挨拶をした時、
「大きな‭かえでの木の植わっておりますお庭に、珍しい鳥が来て、‭むらがっております」
と言った。それに対して、大海人皇子はいかなる反応も示さなかったが、額田は自分が口に出したおお楓のある庭に行って、そこで大海人皇子の来るのを待っていた。
暫らくすると、果たして大海人皇子がやって来た。
「珍しいことがあるものだな。額田の方から呼び出しがかかるとは」
大海人皇子は言って、さもおかしそうに笑った。
「大方、慰めてでもくれる所存であろう」
「お慰めするつもりでおりましたが、いあまお顔を拝しましたら、そのような気持はなくなりました」
額田は言った。その言葉の通りだった。大海人皇子の表情にはいささかの暗さもなかった。慰めるべき何ものも持っていない皇子の顔であった。
「近く‭なんじやかたに赴く」
「いえ、それは」
「ならぬと言うのか」
大海人皇子はいつものように烈しい眼をして見せたが、あとは表情を改めて、
「余を慰めるより十市皇女を慰めてやるがいい。汝が生んだ姫だけあって、なかなかむずかしいところがあるようだ」
と言った。大海人皇子の言うことはよく判らなかったが、十市皇女と大友皇子の間がよく行っていないことを、暗にほのめかされたような、そんなその時の気持であった。
2021/07/01
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