悲しみのうちに慌しく年は改まった。近江朝では、若い大友皇子を中心に、重臣たちが政を摂とっていた。いずれ大友皇子が皇位を踏むことは明らかな事であったが、どういうものか、それに関するいかなる発表もなかった。巷ちまたでは、大友皇子が御位にくことが延びていることに対して、いろいろと取沙汰されていた。五人の重臣たちは毎日のように集まって何事かを議しているが、容易に意見は纏まとまらないとか、重臣たちは二派に分かれてしまい、その間に立って、大友皇子は難渋しておられるとか、そのようなことが言われた。
それから、また、大海人皇子の名が囁かれるようになっていた。大海人皇子が吉野に入ってから、大海人皇子という名は朝廷に於いても、巷に於いても、禁句であって、、誰もその名を口にすることは憚はばかっていたが、それが半ば公然と人の口の端はにのぼるようになっていた。ことに巷ではやがて大海人皇子が近江に帰って来て皇位に即くことになるだろう、いましの交渉が行われている最中であるとか、そんなことが、まことしやかに伝えられた。
また、この奇妙な童謡が子供たちの間に流行した。 |
み吉野の 吉野の鮎あゆ 鮎こそは
島傍へも良き え苦しゑ
水葱なぎ
の下 芹せりの下
吾は苦しゑ
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吉野川に住む鮎は岸のそばに居て、きれいな水の中に住んで結構なことだが、わたしたちは水葱のもとや、芹のもとで毎日働いていて、苦しいことだ。苦しくてたまらぬことだ。
これは百姓の生活の苦しさを歌った歌で、はやり出した初めのうちは、誰もその歌の意味について、かれこれ言う者はなかったが、あまりにそれがはやり出すと、“吉野の鮎”というところが、それを聞く者には異様に聞こえるようになった。そして吉野の鮎というのは、大海人皇子のことであり、大海人皇子が帰って来さえすれば、苦しい百姓の生活もよくなるのだ、そんな意味を持った歌として受け取られるようになった。
子供たちは巷の路地路地で無心に歌っていたが、子供たちがそれを歌うと、それを歌うのを止める大人もあり、却かえって一緒になって声を張り上げて歌う大人もあった。
額田が天皇崩御の痛手からどうにか立ち上がれるようになったのは、長い冬が終わって湖の水の色にも春の気配が感じられて来る頃であった。額田はやがて朝廷の勤めから身を引き、亡き天皇の御陵近くに居を構えて、そこで余生を送ろうと考えていた。そして、その時期を大友皇子が即位する時に当てていた。天皇があのように己が亡きあとのことに気をつかっておられたので、そうしたことが何もかも片付いてから、自分の身の振り方を決めるべきであるという額田の気持だった。しかし、どういうものか、大友皇子の即位に関しては、依然として何の発表の行われなかった。何となく動揺している人心を安定させるためにも、一日も早くその発表があるべきであると思われたが、いっこうそのような気配は見えなかった。 |
2021/07/04 |