~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
兵 鼓 (3-10)
翌年二月、大海人皇子は新しく営まれた飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみやにおいて帝位にいた。天武天皇である。
天武天皇の三年、亡き天智天皇の山科陵やましなのみささぎの造築成った時、額田は勅を拝して歌を作った。
やすみしし わが大君
かしこきや 御陵みはか仕ふる
山科の 鏡の山に
夜はも 夜のことごと
昼はも 日のことごと
のみを 泣きつつありてや
百磯城ももしきの 大宮人おほみやびとは  き別れなむ
おそれ多いわが大君の御陵を営む山科の鏡山に、夜は夜中、昼は昼中、大宮人たちは御陵造営の成った今、ただひたすら泣きに泣いて、別れて行ったことでありましょう。こういう意味の歌であったが、時の人たひの間では、額田のこの歌にかつてのあふれるようなもののないことがささやかれた。
この歌を最後にして、額田の消息は史書から消えている。僅かに晩年の額田が、天武天皇の第六皇子である弓削皇子ゆげのみことの間に交わした贈答歌が『万葉集』に収められているが、額田が飛鳥の新しい都において、いかなる立場で、いかなる生活を持ったかは不明である。
そうした額田にとって、恐らく堪え難いほど悲しかったであろうと思われる事件が起こったのは、天武天皇の七年の四月である。 斎宮いつきのみやにおいて神祇しんぎまつるための行幸があって、まさに鹵簿ろぼが発しようとしている時、にわかに王宮において、十市皇女は病を発してこうじた。このためにこの日の行幸はとりやめになった。余りにも突然の他界であった。皇女は自ら命を断ったのではないかという見方が一部ではされた。十市皇女に死をいたんだ高市皇子の歌が『万葉集』によって今日に伝えられている。
三諸みもろの神
神杉かみすぎ
いめにだに
見むとすれども
いねぬ夜ぞ多き
三輪山の神杉を見るように、あの今はい美しい人にせめて夢の中で会いたいと思うが、悲しみで眠れない夜が多くて会うことは出来ない。
三輪山の
山べますゆふ
短かゆふ
かくのみゆえに
長くと思ひき
三輪山の山辺に生えた からむしから取れる木綿は短いが、そのような十市皇女の生命も短かった。せめてもう少し長くあったらと思ったのに。
山吹の
立ちよそひたる
山清水やましみず
みに行かめど
道の知らなく
山吹の花の咲きかかっている山の清水よ、そこへ行けば亡き皇女が居ると思うのであるが、そこへ行く道が判らない。
高市皇子の亡き十市皇女に対する切々たる気持のうかがえる歌である。この二人がいかなる形において結ばれていたかは知る由もないがm、二人の関係が通りいっぺんのものでないことだけは、高市皇子の三首の歌がはっきりと示している。十市皇女が亡くなった時、額田は四十代半ばに達していた。額田に代わって宮廷歌人として柿本人麻呂かきのもとひとまろの活躍が漸く華やかに大きくなろうとしている頃のことである。
2021/07/08
END