~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
エトランジェの死 (1-07)
捜査員は直ちに公園へ飛んだ。清水谷公園は、紀尾井きおい町と平河町の二つの高台にはさまれた谷間にある小さな公園である。ホテル、高級住宅、参議院宿舎などに囲まれた閑静な一角で、時々デモ隊の結集場所に利用される以外は、あまお人影がない。都心にありながら、台風の目のように喧噪けんそうの中の忘れられた真空地帯であった。
ここならば、夜八時を過ぎれば、人影もまばらになってしまう。ロイヤルホテルは目と鼻の先である。
捜査員は、手分けしてさして広くもない公園を隅から隅まで手がかりを捜しまわった。
二人だけの世界の浸っていた何組かのアベックは、突然大挙して押しかけて来た表情の鋭い男たちに甘い語らいを破られて、早々に退散していった。
公園の中から樹木越しにロイヤルホテルの高僧建物が隠見する。そのとき棟居刑事がなにか手に持って来た。
「こんなものが公園の奥の方に落ちていましたが」
「何だね?」
「麦わら帽子です。ずいぶん古くなっています。こんなものが、どうしてあんなところに落ちていたのか」
「これはまたすごく古い帽子だなあ」
棟居の手からそれを受け取った那須警部補は、思わず嘆声をもらした。「古い」といっても、古すぎる。広いつばはボロボロに破れ、頭の部分にも穴があいている。材料となった麦わらが古色蒼然そうぜん色褪いろあせて、わらというより、虫にむしばまれつくした古い繊維のようなおもむきになっている。
ちょっと手に持っただけで、灰のように崩れそうな頼りない感じである。
「いまどきこんな帽子をかぶる奴がいるのかね? 少なくとも十年くらい前のものだな」
次に那須はあきれた表情になった。
「そうでしょう。しかし十年前からここに落ちていたものでないことも、たしかです。捨てられたのは、つい最近ですね」
「そうだろうな。子供のもののようだね」
那須は、帽子の頭周に目をつけ。
「誰かが捨てたとすれば、まだ、二、三日前のことだと思います」
那須には、棟居のいわんとするところがわかっていた。つまり、犯行の為されたのは九月十七日前後に、帽子が捨てられた可能性があることを示唆いているのである。
── だからといって、この帽子を犯人が捨てたことにはならないよ ── と言おうとして、那須はハッなった。心の中に未解決のまま引っかかっていた一事が、強い熱を当てられた氷のように解けかかった。
── タクシーの運転手が聞いた『ストウハ』という意味不明の言葉は麦わら帽子ストローハットもことではあるまいか? ──
ストロー・ハットが英語になじみのない人間の耳にストハウと聞きとめられる可能性は、十分に考えられる。
「それにしてもガイシャは、ホテルを指してなぜストロー・ハットと言ったのか?」
棟居も、それには答えられなかった。ともかく、清水谷公園で見つけられた麦わら帽子は、殺されたジョニー・ヘイワードになんらかの関係がありそうだった。
ヘイワードはここで何者かに襲われた。瀕死ひんしの重傷を負いながらも、佐々木の車を拾って、ロイヤルホテルの屋上レストランへ転がり込んだという公算が大きくなった。改めて、同公園を中心にして捜査の網が広げられた。
もし推定時間の通りに犯行が行われていれば、まだ比較的時間も早いうちなので、目撃者がいるかも知れない。
警察の執拗しつような聞き込みの網に、ようやくわずかな収穫があったのは、事件発生後五日目のことである。この公園には、近辺のオフィス街からサラリーマンやOLが昼休みや退出後にしばしの憩いを求めて集まって来る。手応てごたえはそれらのサラリーマンの中からあった。
九月十七日の午後八時半頃、職場の女友だちと公園へ行こうとして赤坂方面から歩道を歩いていると、公園の中から一人の女が出て来た。
その女は、いったんこちらへ来かけたが、彼らの姿を見ると、ぎょっとしたように、きびすを返して、四谷の方角へ向かって走るように去ってしまった。距離が多少あり、照明もなかったので、姿型から日本人らしい女とわかっただけで、特徴はいっさい印象に残っていない。服装も洋服ということだけである。
彼らは、そのことでなんとなく気勢を削がれてしまったので、公園に入ることなく、そのまま赤坂の方へ引き返した。
── 以上が、そのサラリーマンの申し立てである。そしてそれだけが捜査本部二十数名の刑事が数日を費やして得た唯一の収穫であった。
これだけでは、どうにもならなかった。捜査本部には、早くも沈滞ムードが漂っていた。
アメリカ大使館を経由して、被害者の現住所からの返事か来た。
それによると、ジョニー・ヘイワードには遺族がなく、死体の引き取り手がいないということである。
2021/07/13