~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
不 倫 の 臭 跡 (3-02)
「家内が数日前から失踪してしまいまして、行方を探しているのです。家内のハンドバッグからお宅のマッチが出て来たので、もしかすると、こちらに何かの手がかりが残されていないかと思って伺ったのですが」
小山田は言いながら、文枝の写真を仲居の前に差し出した。
「ああ、この方なら」
たちまち反応があった。相手は息をのむようにして写真を見つめた。
「やっぱりこちらへ来ていましたか。子供も母親を恋しがって毎日泣いています。おそらく男にそそのかされて、駆け落ちしたのだと思います。いずれは、夢からめたように、過ちに気がついて戻ってくれると思うのですが、それまで子供は可哀想なので。こうやって行方を探しています。過ちは咎めないつもりです。もしお宅が妻の相手の男の住所や名前をご存知でしたら、教えていただけませんか」
小山田は相手の同情をくために架空の子供を創造した。そしてそれはかなりの説得力を発揮した様子であった。
「あなたさん・・の奥様だったのですか」
男女の情事に不感症化しているようなポーカーフェースの仲居の面に動くものがあった。
「男が妻の行方を知っていると思います。こちらのご迷惑になるようなことはいたしませんから、男の住所と名前を教えてください」
小山田は、すがりつくように言った。
「それが・・・」
仲居の面に明らかな当惑が揺れている。
「お願いします。私はとにかくとして、子供は幼く、母親を必要としています」
「そういうご事情でしたら、教えてさしあげたいのですけれど、実は私どもも知らないのです」
「知らない?」
小山田は信じられないように、相手を見た。
「川村さんというお名前だけで、それも本当のお名前かどうかわかりません」
「しかし、宿帳があるでしょう」
「ほほ、そんなものを取ったら、お客様に嫌われますわよ」
仲居は自嘲的じちょうてきに笑った。
「すると、まったく何も残されていないんですか」
「お気の毒ですけれど」
仲居は、本当に気の毒気な表情をした。故意に黙秘している態度ではなかった。激しい失望が、小山田の心の底から墨のように拡がって来た。
「それではせめて・・・家内の相手はどんな男だったでしょうか?」
「そうおっしゃられても・・・」
「年齢はいくつぐらいに見えました?」
「そうですね、四十前後じゃなかったかしら、なかなか押し出しの立派な方でしたわ」
仲居は、小山田と見比べるような目つきをした。彼はもともと蒲柳ほりゅうの質である。療養中の身に加えて、ここ数日、妻の捜索に疲れてげっそりとやつれている。服装もいいかげんであった。小山田には仲居の目が妻に逃げられても仕方がないと言っているように見えた。
「なにか目立つ特徴はありませんでしたか?」
「そうですね」仲居は少し考える風をしてから、
「特徴ではないのですけれど、置き忘れて行った品物がございますわ」
「忘れ物! 何ですか、それは」
「本です。お返ししようと思っていたのですが、その後お見えにならないものですから」
いまその本がありますか」
小山田は、息を弾ませた。男が置き忘れて行った本となると、その中に持ち主の名前が書いてあるかも知れない。
いったん奥へ引っ込んだ仲居は、一冊の本を手に持って来た。
「この本でございます」
と彼女が差し出したのは、「トップマネージメントシリーズ事例研究」とサブタイトルが付された『経営特殊戦略』と題された書物である。ビジネス書の出版で知られる大手出版社から最近刊行されたものであった。
本は新しいが、カバーが付いていないので、どこの書店で買ったものかわからない。
持ち主の名前など書いていなかった。せっかく手繰り寄せた手がかりも、これでは役に立ちそうもなかった。
失望しながらも未練を捨て切れず、頁を繰っていると、はらりと足許あしもとに落ちたものがある。
取り上げてみると、一枚の名刺であった。自分の名刺を一枚だけ本に挟み込むことは少ない。名刺を交換したか、もらった際に、つ何気なく相手の名刺を本の頁に挟んだまま忘れてしまったのであろう。
名刺には、「東都企業株式会社営業グループ、チーフ」という肩書の下に『森戸もりと邦夫』と名前が刷られてあった。この森戸なる人物に問い合わせれば、名刺を誰に渡したか覚えているかも知れない。
── だが、日本人は名刺を気軽にばらく。ばら撒いた名刺の中の一枚を、果たして誰に渡したか覚えているだろうか? ──
裏を返した小山田の目が、みるみる輝いた。そこには <お留守の間にうかがいました。例の一件、なにとぞよろしくお願いいたします> と添え書きがあったのである。この裏書きから判断しても、名刺の主が、本の持ち主にててその名刺を差し出した可能性が強くなった。
宛名は書いていない。だが、これだけ個性のある名刺ならば、森戸は誰に差し出したものか覚えているに違いない。
名刺の肩書から推して、森戸はセールスマンだろう。顧客先を訪問して、例の一件よろしく頼むと“置き名刺”をしたのだ。
「この本をちょっと貸していただけませんか」
小山田は、暗夜に灯台の灯を見出した漁師のような目を仲居に向けた。
2021/08/14