~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
底辺からの脱出 (2-04)
「詳しくと言われましてもね、私がハンドルを握っていたわけじゃないからね」
「しかし記録には、あなたの名前が加害者アセイラントとなっておりますが」
「加害者とは、まるで犯罪者扱いだな。あの事件は、相手に賠償金を支払い、とうに解決しているはずだ」
加害者扱いをされて腹を立てた様子のアダムズは、丁重の仮面を脱いで、人にかしずかれることにれた大物の傲岸ごうがんさを剥き出した。
「賠償をしたのですか?」
「こちらに悪いところはないのだが、一応人身事故を起こしたのだからな」
腹を立ててアダムズは、事故当時の模様を思い出したらしい。
「あなたの方に悪いところはなかったとおっしゃいますと?」
交通事故の当事者はたいてい双方が相手に非があったと主張し合う。
「先方から私の車にぶつかって来たんだよ。私の運転手は、二十年間無事故のベテランだが、突然目の前に飛び出されて、避け切れなかったんだ」
「突然、車の前に飛び出したというんですか?」
「そうだ、あれは賠償金目当てのたちの悪い当た屋の手口だ。まあ相手は年寄りだし、大した金額でもないので、相手の言うままに金をやったが、不愉快だった」
アダムズは、不愉快な記憶を掘り返されてまゆをひそめた。
「詳しいことは運転手のワゴが知っている。相手との交渉もすべて彼に任せたからね」
アダムズが言った時、先刻の執事が小腰をかがめて彼に何か囁いた。
アダムズは鷹揚おうようにうなずいて、
「すまんが、次の約束が迫っているので、これで失礼する。ワゴは置いて行きますから、詳しいことは彼に尋ねなさい。では」
と言いながら、ゆらりと立ち上がった。
つづいて運転手のワゴに会ったが、アダムズの言葉が裏付けられたにすぎなかった。
市内制限速度を忠実に守って走行していたところ、横断歩道でもない所からいきなり飛び出して来たということである。
急ブレーキをかけたが、間に合わなかった。まるで自殺でもするような飛び込み方であったという。当方に非がないので、賠償の必要はないと思ったが、トラブルを嫌うアダムズの言葉によって、自動車保険による賠償金に添えて、多額の見舞金を包んだおうである。
「実際に保険金を併せていくら支払ったか教えていただけませんか」
ケンは、追いすがった。
「保険の方が、約二千ドル、私共で二千ドル包みました」
「四千ドル支払ったのですか」
これだけあれば、優に日本への旅費と相当日数の滞在費を賄える。
「自損行為、つまり自殺や飛び込みの場合は保険金を請求出来ないのですが、私共の証言が保険会社に大きく影響して、保険金の支払いが認められたのです・。いえ、偽証したというのではなく、自殺の気配はなかったと申し立てただけです。主人マスターは、保険会社にも関係しておりますので、主人の言葉が保険金支払いについて決定的な力をもっていました」
ワゴは自分の発言が、雇い主の不利に働くのをおそれるように、言った後からしきりに新たな言葉を追加した。だが、ケンにとって興味があるのは、ウィルシャー・ヘイワードが、“自損行為”に近い形でライオネル・アダムズの車に接触して、四千ドルの大金を得た事実であった。
そして彼の死後間もなく、息子のジョニー・ヘイワードが日本へ行った。
ウィルシャーが接触したのは、ニューヨーク財界でも有数の大立者である。彼は接触する前に、相手の身分を知っていたのではあるまいか? つまり「相手を選んだ」のではあ凪いだろうか?。
自分同様、素寒貧すかんぴんの車にぶつかったところで、賠償金を取れるかどうかわからない。被害者の方から車に当たって来たと主張されrば、保険金も当てにならなくなる。
金持相手ならば、トラブルを極力嫌う。最初からいざこざを金の力で避けようという姿勢がある。ウィルシャーは賠償金目当てにアダムズの車に当たった?。
「こんなところでよろしゅうございますか?」
自分の思考の中にのめり込んでしまったケンを、ワゴが心配そうにうながした。
2021/08/19
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