~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
失 踪 の 血 痕 (1-08)
「小山田さん、まさかあなたは・・・」
新見は、小山田の恐ろしい推理の先を読んで顔をゆがませた。
「熊が車で運ばれて来たと指摘したのは、ななたですよ。たしかに車ででも来なければ、置き忘れるはうがない。そして熊と入れ替わりに、家内が車に乗せられた。後には血痕の付着した熊が残された。彼女が一日でも離れて居たくないあなたには、その夜を最後に連絡が絶えた。となれば、家内をその場へ残しておけないような事態があの夜突発したとしか考えられないのです」
小山田さん、あなたはなおみがもうこの世の者ではないとお考えでですか?」
「残念ながらそう考えざるを得ません。もう消息を絶ってもう十日にもなるのです。交通事故にでも遭ってどこかの病院に収容されていれば、当然連絡が来るはずです」
「収容されたものの、意識不明で身許みもとがわからないのでは」
「持ち物からわかるでしょう。たとえ持ち物がなくなっていても、報道はされるはずです」
小山田と新見の立場があたかも逆転したようであった。新見は、まるで自分の妻の身を案じるように強いて強い楽観へ目を向けようとしており、小山田は、他人事ひとごとのように客観的な視点に立っていた。小山田はそれが二人の男の文枝に対する現在の愛の位置と姿勢だと思った。
夫としてそれを認めるのは悲しい事ではあったが、新見と話しているうちに、認めざるを得なくなっていた。小山田の客観性は、彼の敗北の印と言ってよかった。だが敗北はしても、妻の行方を追う熱意は失っていない。せめて亡骸だけでも探し出し、失われた愛の形見として、自分の手で葬ってやりたかった。
だが彼らは今、推測から導き出された結論を具体的な言葉に表すのを、互いに恐れていた。悲観と楽観の視点の違いはあっても、結論を言葉にすると同時に、事実として確定してしまうような不安におののいていた。
── Xは、黒い凶器に乗って、暗夜、文枝の背後から襲いかかった。突然振るわれた凶暴な力を無防備に受けた彼女は、ひとたまりもなかった。Xの方にも殺意はなかった。自己の不注意から招いた重大な結果に動転した。
だが一時の動転から立ち直ったXは、自分の身を守るために、文枝をどこかへ運んで行った。その時すでに彼女が死体となっていたか、あるいはまだ生きていたかわからないが、そのことはあまり重要ではない。暗夜、目撃者のない場所での事故だ。被害者さえ隠してしまえば、Xは安泰である。犯行の現場さえわからない完全犯罪が成り立つ。
こうしてXは、文枝の体をどこかへ運んで隠してしまった。Xの犯したた一つのミスは、彼女と入れ替えに熊を残したことだ。──
それが二人の推理の辿たどり着いた結論であった。
「とにかく、この熊のシミを分析してみるまでは断定出来ませんよ」
交通事故の現場は、時間が経つほどに痕跡がうすれてしまいます。もうあれからだいぶ日数が経っているので、あまり見込みはありませんが、私は自力で熊のあった近くを捜してみるつもりです。熊のシミが家内の血液と確定すれば警察も動いてくれるでしょう。新見さん、協力していただけますね」
「もちろんです。私に出来る事なら何でもいたしますよ。とりあえず知人にその方面の医者がいますから、シミを分析させます」
二人の間に奇妙な同盟が結ばれた。一人の女性を共有(あるいは奪い合い)した二人の男は、いま、彼女を横から奪い去ったXに対して共同して宣戦した。奪い合った者が失われたことによって生じた連帯である。
奪い合いが激しかっただけに、その連帯には強固なところがあった。
2021/08/22
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