~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
忘れじの山宿 (5-01)
渋江警部補の話によると、おたね婆さんこと中山種が発見されたのは、今朝十月二十二日午前八時頃である。発見者は工事人の一人で、墜落現場の真上にあるダムの古草履ぞうりが片方だけぬぎ捨てられてあるにに不審を抱いて手すりから下を見たところ、ダム基部の岩盤に全身を打ちつけて死んでいる人間に死体を見つけた。びっくりして作業事務所に急を知らせて、現場へ駆けつけてものである。
検視の所見によると、死亡推定時刻は午前六時前後、死因は、高所からの墜落による頭蓋骨ずがいこつ粉砕である。老女がどうしてそんな半端な時間にダムの上から墜落したのかわからないので、警察としてもその扱いに迷っているところに、静枝や横渡の一行が来たという。
渋江の説明を聞きながら、二人の刑事は激しい失望感に打ちのめされていた。これでようやく掴みかけたかすかな手がかりが失われた。
── 中山種は、殺された ── ということが、ここまで追って来た彼らには痛いほどわかった。
犯人は、絶えず警察の動向を監視していて、警察が「霧積」に目を着けたと知るや、先回りして事件の鍵を握るおたね婆さんを抹殺まっさつしてしまった。
不毛の追跡が長かっただけに、ようやくつかみかけた手がかりを失ったことは、再び立ち上がれないような脱力感の中に、二人をたたき込んだ。
「しかし、婆さんが殺されたということは、我々の追跡が正しい方角へ向かっていることを示すものじゃないでしょうか」
ややしばらくの放心の後に、棟居がふと思いついたように言った。
「正しい方角だろうが、誤った方角だろうが、これでまた、暗闇の手探りになったことには変わりはないよ」
横渡が、吐き捨てるように言った。
「午前六時頃といえば、もう明るくなっています。こんな危険な時間に婆さんをダムの上へ誘い出して突き落とした犯人は、かなり焦っていたと思うのです。犯人には時間がなかったのかも知れない。犯人は重大な危険を冒して、婆さんを殺した。犯人の姿を見ている者が居るかも知れません」
「そんなヘマをするかな」
「わかりません。しかし犯人は、なにも我々の来る直前に、婆さんを慌てて殺す必要はなかった。殺すつもりならばいつでも殺せたはずです。それにもかかわらず、最もきわどい時間を選んで、それをし。ということは、犯人は我々が婆さんのもとまで辿り着けないとかたをくくっていたんじゃないでしょうか。それが意外に早くその存在を割り出してしまったので、びっくりして、婆さんの口を封じた、と考えられませんか」
「慌てていたから準備する余裕もなく、なにかミスを犯しているかも知れないというわけだな」
「そうです。それに婆さんが犯人の誘いに乗ってのこのこ従いて来たところを見ると、顔見知りの者と思います」
「すると、ジョニー殺しの犯人が、おたね婆さんの顔見知りだったということになるな」
「婆さんが犯人の顔を知っていた可能性はあります。その可能性があるだけでも、犯人にとって危険この上ない」
「ジョニーと婆さんを殺した犯人は、同一人物だろうか?」
失望に打ちのめされていた横渡も、しだいに立ち直って来た。
「とはかぎらないでしょうが、ジョニー殺しの手がかりを消すために婆さんの口を塞いだとすれば、新たな共犯を雇い入れて、べつの危険の種をくとは、考えられませんね」
「もし同一犯とすれば、日本人だな」
「どうしてですか?」
「犯人は婆さんと面識があっても不思議はないでしょう」
「面識があるとしても、霧積を接点にして出来たものだろう。だとすればだいぶ以前のことだ。婆さんが、ただでさえもおぼえにくい外国人の、そんな古い知り合いの顔を憶えているだろうか」
「・・・・」
「それに外国人が犯人だとすれば、あまりにも大きな危険を冒したことになる。このあたりで外国人の姿を見かけたら、かなり目立つ。必ず誰かの目に触れたはずだ」
「なるほど、しかし外国人でないにしても、犯人が危険を冒したことに変わりありません。探せばなにか残っているかも知れません」
二人の刑事は、ようやく立ち直った。絶望の淵から手探りで、暗夜に光明を求める作業が、また始まったのでのである。
祖母の遺骸いがいにすがりついて泣いていた静枝も、検視の係員に両手を取られて引き放された。刑事たちには、犯人追跡の執念と作業が残っていたが、彼女の悲嘆には、まったく救いがない。警察の捜査は、被害者の不幸を少しも救えないところに、捜査の限界とむなしさがあった。
事故死と見ていた松井田署では、警視庁から来た二人の刑事の介入によって、にわかに緊張した。当面、事故、作為両面の構えで、捜査をすることにした。横渡と棟居は東京に連絡して、出張を延期し、中山種の身辺を松井田署と協力して洗うように新たな指示を受けた。
2021/09/14
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