~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
遠い片隅の町 (3-02)
結局、八尾まで来て得たものは、たった一通の古い手紙だけだった。それすら犯人を示す八ものかどうかわからない。八尾から他郷へ出た者を追うとなると、これこそ雲を掴むようなものである。
彼らは執拗しつように追って来た一本のあえかな糸が、プツリと切れたのを感じた。これまでにも糸は何度か切れかかった。その度に新たなデータが補足されて、手をのばした先に新たな糸を探り当て、切れぎれながらもとにかくここまで追って来た。
だが今度こそ行き止まりだ。糸の切れた先に、新たな糸の端末はしはのびていない。
「これじゃあ東京へ帰りにくいですね」
「しかたがないさ、これが捜査だよ」
横渡は慰めるように言ったが、棟居以上に気落ちしているのがわかった。
午後の遅い列車か夜行で帰れないことはなかったが、収穫のないことが、二人の疲労を引き出した。とても長途の列車に揺られて帰るだけの気分も体力も残っていなかった。
彼らは、その夜宮田旅館に泊まることにして、午後八尾署にいちおう顔を出した。派出所の巡査に案内してもらったので、挨拶をしないわけにもいかない。今後、また世話になるかも知れないのである。
八尾警察は町役場と背中合わせの場所にあった。
警察へ寄ってから、彼らは町を一望に見下ろす城ヶ山公園へのぼった。ここは諏訪左近の築いたとりでの跡である。
すでに秋の陽は西山に傾きかけて、八尾の町は夕景の中にあった。低い家並みの下に炊煙が夕靄ゆうもやとなってたな引き、だだでさえ優しい町の表情をいっそうになごめている。
木立と家がほどよく混在し、その間に夕日に赤く染色された井田川が蛇行している。おちこちに鏡を浮かべたようにあかねの光を砕くのは、沼か水たまりか。それらの光をじっと見つめていると、やがて、太陽の移行おともににじみ出す暮色の底に色せてしまう。
それらの幾つかは、民家の屋根だったと気がつくころは、暮色が一段と深まっている。
頭上には冬将軍に明け渡す直前の北国の空が、秋の最後の彫琢ちょうたくを施された深い透明な画布となって広がっている。一日の最後の光が徐々に西の天末てんまつみつのように凝縮されて、天心に残った数条の巻雲を、濃紺のカンバに一刷ひとはけのピンクの色彩を引いたように染めている。風のない穏やかな夕方であった。城ヶ山の頂に向かって、枯れた桜の並み木を分けて緩い石段がつづいていた。石段に枯れ葉が散り敷いて、靴と石の間の感触を緩衝する。木の下道をのぼって行くと、どこかで落葉をいているのか、樹間が柔らかくけむり、香ばしいにおいが漂って来た。
石段の上の方から手をつないだ父子が下りて来た。中年の父親と、三、四歳の幼児である。すれちがって、振り返ると、子供の頭に一枚の黄色い落ち葉が乗っていた。どこか寂し気な父子の後ろ姿であった。
棟居は、その二人が妻と母に捨てられてような気がした。
「どうしたね?」
父子の後ろ姿をしばらく見送っている棟居に、横渡がたずねた。
「いや、なんでもありません」
棟居は、慌ててかぶりを振った。石段を登り切って「二番城ヶ山」と表札のある高台に立つと、展望はさらにひらけた。
ここまで来る間に残照はおおかたうすれ、八尾の町は遠い夕闇の底からちらちらと家々の灯を漏らしていた。
その灯の下には、いかにも穏やかな表情をした人々の安らぎがあるような、温かみを持ったみかん色の灯であった。
その高みに上ると、低山の上に雪をいただいた連峰が見える。富山平野を屏風びょうぶのように囲繞いにょうする立山や白山であろう。それらの山々から落日の余韻よいんを封じ込めるように蒼茫そうぼう たる黄昏たそがれが海のように押し寄せて来るのである。
「人恋しくさせるような町だな」
「遠くにありて想う郷里とは、こんな町でしょうか」
「棟居君、あんたの郷里はどこだい?」
「東京です」
「俺も東京生れだよ」
「それじゃあ、おたがいに故郷がないのと同じですね」
「まったくだ。しかし若い連中はこういう故郷から抜け出したがる。母親の膝から飛び出すようにな」
「離れてみなければ、その良さがわからないんでしょう」
「離れただけじゃわからんかも知れないよ。離れて、心身ずたずたに傷ついてみなければ」
「旅館のおしんちゃんとかいった娘、安易に飛び出さなければいいですがね」
棟居は、宮田旅館の頬のまるい、目の大きなお手伝いの顔を思い出した。
「そろそろそのおしんちゃんの所へ帰ろう。体もすっかり冷えてしまったし、腹もへってきた」
横渡が胴震いした。少し風が出たようであった。

彼らは翌日の午前の列車で富山を発った。上野へ着いたのは、午後五時少し前である。
彼らは面目ない思いで、捜査本部へ帰り、出張の土産のないことを那須警部に報告した。
「いや、これは意外な土産かも知れないぞ」
那須は大室よしのから領置してきた葉書を手に取りながら慰めてくれた。だがその葉書から一歩も先へ行けない事実に変わりはなかった。
2021/10/17
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