~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
決め手の窃盗 (3-01)
八杉恭子は、本当に怒っていた。そして、谷井新子を家に置いたことをこころから公開していた。そんな親戚しんせきがいたことすら忘れていた縁つづきとは言えないような遠い縁を頼った彼女が押しかけて来た時は、よほど門前払いを食わせようかと思った。
だが、今までいたお手伝いの老女が暇を取ったばかりだったので、新子がいかにも機転の利きそうな働き者に見えたので、お手伝い代わりに置いてやったのが、とんでもない結果を生んでしまった。
「なにもそんなことをわざわざ警察へもっていくことはないじゃあないの」
恭子は、新子を呼びつけて、頭ごなしにしかりつけた。相手が手柄顔しているのが、よけい彼女の怒りをあおる。
「でも奥様、警察を呼んだのは、陽子さんです」
新子は、頬をふくらませて抗議した。“泥棒”を捕まえたのに、悪いことでもしたかのように自分が叱られなければなたないのか、彼女は大いに不服だった。
「警察へ引き渡すだけで十分です。なにもわざわざこちらから出かけて行く必要なんかありません」
「でも、事情を調べるためには・・・」
「事情なんか引き渡した時にわかっているはずよ。あなたが忍び込みを見つけて捕えただけでしょう。私の仕事にとって、たとえどんなことであれ、警察沙汰ざたは迷惑なのよ」
「まあ、そんなに怒らなくてもいいじゃないか」
あまりの妻の激昂げっこうぶりに、郡陽平が間に入った。警察を呼んだことについては、彼にも責任がある。
「あなたもその場にいらっしゃったのにそうして止めてくださらなかったのですか。何も取られたわけでもなし、いくらでも内々に済ませられたでしょうに」
鉾先ほこさきが陽平の方を向いた。
「しかしその時はいったい何の目的ではいって来たのかわからなかったんだから、一応警察に任せるのが当たり前だろう」
「犯人をこちらで調べてからでも遅くはありません。犯人は、恭平が轢き逃げしたなどととんでもないことを警察に申し立てているそうじゃありませんか。たとえデマでもそんな噂が世間に流れたら、私はどうなると思って? あなただって大いに影響うけるわよ」
「だから、俺も気にしてるんだよ。恭平の車はたしかにあの森戸とかいう男の言う通り、なにかにぶつけた痕がある」
「まああなたったら、あんな男の言うことを信じていらっしゃるの?」
「信じてはいないが、気になるじゃないか。彼は、カメラとフラッシュを持っていたんだぜ。そんな忍び込みがいるかね」
「きっとどこかの新聞社か出版社に頼まれて、私たち夫婦の私生活を盗み撮りに来たんでしょ。車がへこんでいたので咄嗟とっさの言い訳にしたんだわ」
「それにしては、事実が符合しすぎている。俺が聞いたところによると、K署は、小山田文枝という女性が轢き逃げされた疑いがあるという届け出を受けて、一度捜索しているんだ」
「それがどうして恭平に関係あるのよ。小山田なんとかいう女性は、誰かに轢かれたのかもわからないし、車なんて何にぶっつけてもへこむわよ。警察は、犯人を出しさえすればいいのよ。郡陽平と八杉恭子の息子を轢き逃げ犯人に仕立て上げれば、凄い大手柄よ。犯人を造り上げるために、私たちが息子を疑うように仕向けているんだわ」
「だがね、森戸の背後にマスコミはいないようだ。彼は単なるセールスマンだよ」
「そんなすぐわかるようなヘマはしないわよ。きっとどこかでマスコミとつながっているんだわ。たいいち、セールスマンがどうして小山田なんとかの轢き逃げについて動きまわっているの?」
「その男は、小山田文枝の亭主の友人で、亭主から頼まれてと言ってるそうだ」
「それがどうし、恭平と結び付けたの?」
「その辺りの所は警察もはっきり話してくれないんだ」
「それごらんなさい。なに根拠なんかないのよ。あなた、もっと自分の子供を信じてあげてよ。恭平がそんなことをするはずがないじゃないの」
新子を叱責しっせきしていたのが、とんだ方角にそれてしまった。
2021/10/23
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