~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
巨大な獄舎 (3-06)
足許あしもとから鳥が立つように、彼らはチェックアウトの支度をした。この期に及んでも恭平は熊を捨てられなかった。残して行くのが恐ろしくもあった。
荷物をまとめて、フロントへ行き、出発の意志を告げる。キャッシャーがコンピューターにルームナンバーを打ち込むと、即座に料金が演算される。恭平がデポジット清算を待っていると、後ろから肩を軽くたたかれた。
そこに中年の日本人が立っていた。鋭い目つきをした厚味のある男だった
「急にどちらへお発ちですか?」
日本人はずしりと胸に響く口調で聞いた。目の奥からじっと恭平と路子の様子を観察している。
「き、君は誰だ!?」
恭平はしどろもどろに聞き返した。
「新見と申します」
「君なんか知らないぞ」
「私のはよく存じ上げていますよ」
「いったい何の用事だ。ぼくは忙しい。これから・・・・」
と言いかけて、恭平はまだ行き先をまったく決め手いないことに気が付いた。
「これからどちらへ行かれるおつもりで?」
新見が先まわりして聞いた。
「ど、どこへ行こうと大きなおせわだ」
「どうしてそんなにいきり立っているのですか? 私はただお話しをしているだけなのに」
「知りもしない人間から話しかけられては迷惑だ」
「私は存じ上げていると申しました。ほんの手土産に先ほど熊のぬいぐるみをお届けいたしましたが、お気に召していただけたでしょうか?」
新見は、彼らの荷物の中に熊が入っているか探る目をした。
「やっぱり君だったんだな、あれを持って来たのは。いったい何のつもりであんな真似をしたんだ?」
「そのわけはあなたが誰よりもよくご存知のはずですよ」
「君は、君は・・・・」
「あの熊はあなたのものですね」
「ちがう!」
「隣りの部屋から一部始終を聞いていました。壁が薄いので、手に取るように聞こえましたよ。あなた方の言葉はカセットテープに録りました。アメリカのホテルは便利ですね、チップをはずめば、望の部屋へ入れてくれる。あなたの隣りの部屋が空いていたのは、運が悪かったですね」
「ちくしょう・・・」
穏やかだった新見の口調がすごみを帯びた。

2021/10/29
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