~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
人間の証明 (4-03)
日本の警察から、ジョニー・ヘイワード殺しの犯人を検挙したというしらせを受けた時、ケン・シュフタンは、なんとなくホッとした気分になった。べつに責任はないのだが、最初からの行きがかりで調べているうちに、殺されたジョニーにいつの間にか「人間の情」のようなものをおぼえて、捜査の行方が気にかかっていたのである。
オブライエン警部から聞いたところによると、ケンが調べて日本へ送った資料が、犯人逮捕に大きく役立ったそうである。
具体的にどのように役立ったのかわからないが、ケンはうれしかった。これで日本に対する「借り」を少しでも返せたような気がした。
その翌々日、ケンはイーストハーレム観光客がカメラを引ったくられたという急報を受けてパトカーで現場へ飛んだ。
ハーレムでは、スリやひったくりは犯罪視しないのだが、被害者が外国人なので、一応調べることにしたのである。
このあたりは、一般観光客の入り込まないブロックだが、撮影に夢中になってつい深入りしたのであろう。犯人はとうに逃げ去っていた。
被害者や目撃者から一通り事情を聴いて、引きあげようとしたとき、ケンはここがヘイワード父子が住んでいたマリオのアパートに近いことに気が付いた。
ドアボスのマリオにもずいぶん迷惑をかけた。ごみためなどとひどいことを言ったものだが、考えてみれば彼女の協力も、ジョニー・ヘイワード殺しの犯人逮捕に一役買っているのだ。
まだ、父子の部屋を押さえているかも知れない。犯人があがったのだから、これ以上押さえホールドさせておく意味はない。マリオにも犯人が捕らえられたことを教えてやり、部屋を解放させてやろう。
ケンは、パトカーを先に帰してハーレムの裏通りを歩き出した。ハーレムはもともと彼の故郷である。いずれは取り壊される運命にある赤れんがの建物と吹きだまりのえた臭い、不潔で猥雑わいざつで騒がしいが、そこにはたしかに人生のため息のようなものがあった。
彼は、そのため息を聞くと、不思議に心が安らぐのだ。人生の重荷と暗い影を引きずっている人間同士の連帯のようなものが感じられる。
向こうから蹌踉そうろうとした足取りで一個の人影が近づいて来た。きっとこのあたりに屯しているアル中の一人だろう。
── あいつも同士なんだ ──
今日はそんな気がした。人生の重荷によろめきながら歩いている同士。ケンは人影とすれちがおうとした。ケンと人影が重なり合った。背の高い黒人であった。そこでケンの時間は凍りついた。人影の口から「犬めコツプス!」という言葉が漏れたように思った。次の瞬間、ケンは脇腹に熱せられた鉄棒を押し込まれたように感じた。
「なぜなんだ?」
ケンはうめいて、よろめいた。足に力が入らなかった。重なり合った二つの影が離れると、一方の人影は、ケンの来た方角へ走り、ケンは数歩ふらふらと歩いて、。路面に倒れた。
昼下がりのハーレムは無人のように静まり返り、誰も駆けつけて来る気配はなかった。
突然の襲撃者は、逃げる時凶器を抜き取って行った。傷口から手で押さえたくらいではどうにもならないほど血が噴き出して来る。その血は路面の勾配こうばいに従って低い方へ流れて行くが、ケンはその行方を見届けることが出来ない。
傷は重要な臓器に達したらしく、速やかに行動能力が失われ、意識が去っていく。
「なぜ、なぜなんだ?」
ケンはつぶやきながらも、その理由を知っていた。自分を刺した犯人には理由なんかないのだ。あるとすれば、人生に対するうらみであろう。ケンはたまたまそこを通りかかっばかりにその怨念の人身御供にされたのである。自分が警察官であったばかりに、犯人の怨みがかき立てられた。警察官はいつも人生の勝者の味方のように、人生から疎外された者の誤解を受けやすい。また、そう誤解されてもしかたのないところがある。
「俺だってそうだ。俺は決して正義の味方ではなかった」
ケンは薄れていく意識の中でつぶやいた。遠い日、兵役で日本へ行っとき、無抵抗の日本人に小便をかけたのにも、明らかな理由はなかった。混血という理由だけで、常に最前線に駆り出された怨みを、日本人へ八つ当たりしたにすぎない
戦場では危険な最前線にいつも押し出されたが、市民生活へ戻れば、今度は底辺に押し込められる。
あの頃は自分も若く、粗暴であった。自分を疎外したものすべてを敵視した。本国へ帰れば、サラブレッドの白人女は自分たちにはなもひっかけないことがわかっている。そのストレスと若い獣欲を、被占領国の女性にたたきつけようとした。それを拒んだあの日本人も敵だった。
だがあの時日本人に放った小便は、自分の心に向けたのと同じであった。
日本人の傍でその男の子らしい幼児が、自分を燃えるような目をして睨んでいた。あの目が、それ以降、日本人に対して負ったケンの債務になったのであっる。
── 死ねば、あの借りも帳消しになるだろう ── と思った時、ケンの最後の意識が切れた。傷口を押さえていた彼の腕が、だらりと地上にのびた。その腕に女陰のような傷痕きずあとが見えた。南太平洋上の孤島で戦闘中、弾丸が至近距離で炸裂さくれつして、その破片を受けた個所である。その傷のおかげで、身体の重要な部分をかばえたのだ。
ちょうどハーレムの建物の間から傾きかかった午後の太陽光が一筋さし込んで来た。それが古く黒ずんだケンの傷痕を、たった今傷ついて出血しているかのように、生々しく染め上げた。
ケン・シュフタンの息絶えたハーレムの一角は、ニューヨークの営みから切り放されたように信じられない静寂の底にいつまでも沈んでいた。
2021/11/14
==END==