~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第一章 他の者を救おうとすれば自からその中に飛び込め
第一章 (6-03)
辻が憲兵云々を思いついたのは、その前夜、士官学校時分からの友人である東京憲兵隊の塚本大尉が訪ねて来たことから思いついたのだった。塚本がとくに辻を訪ねて来たのは、同期生の某がカフェの女給に惚れて、どうぢてもそれを女房にしたいというので、同期生の誼として、その相談にやって来たのである。当時陸軍では、将校の結婚にはやかましい不文律があった。将校は国民の中から選ばれた者として、相手の女も身許が確かでなければならなかった。そのために尉官級の者の結婚には連隊長、佐官級の者には師団長の同意を得なければならなかった。若しその同意が得られないような相手であるならば、誰かの身許保証が必要であった。それをもし得られなければ、永遠に「妻」と呼べない位置に置くよりほかなかった。
辻は、塚本の相談をうけると、ちょと考えてから、
「相手が人間的に確かなら、それでいいじゃないか」
いかにも辻らしい割り切り方であった。
しばらく雑談を交わした後に、辻は思い余った顔つきで、
「実は、こういう情報があるんだが・・・」
佐藤が集めた情報を打ち明けて、
「確実か、どうかは分らんが・・・オレの耳に入ったところでは、士官候補生らは、週番司令を殺害して武器弾薬を奪取する計画だというんだ・・・そしてどういうわけか知らんが、オレが週番司令でない時を選べ、という指令が出ている、ともいうんだがね」
「貴公の週番はいつだ?」
「昨日交替したばかりだ」
「昨日交替した? それで問題の臨時会議は今日から開かれている、と・・・おい、こりゃ、やるかも知れんな」
塚本は憲兵の六感を働かせて、瞳をかがやかした。
「やるかね?」
辻はぼんやり呟いて、塚本を見つめた。
「どうも、やりそうだ。いろいろ符合している。ぐずぐずしてないで、これは報告すべき所へ報告した方がいいぞ」
「生徒隊長には、明日報告しようと思ってるんだが・・・」
「陸軍省には、どうか・・・片倉少佐には連絡したか」
片倉衷は陸士三十一期、満州事変の際、関東軍名参謀として鳴らした男で、辻や塚本の先輩だが、三人はごく懇意な間柄だった。
「一昨日、何かの用件で学校へ見えたので、あらましのことは話しておいた」
「片倉少佐は、何と言ってたか」
「そりゃいかんねえ、と言っただけだ」
「もう少し詳しく話しといたほうがいいね」
「では、明日、連絡を取ろう」
そんな話を取り交わして、塚本大尉はあたふたと帰って行った。
翌日、辻は塚本との約束にしたがって陸軍省に片倉少佐をたずめて、詳細な情報を報告した。事件はもはや憲兵隊の手に移った。辻は帰校すると、改めて佐藤候補生を自室に呼んだ。
「事件はいよいよ憲兵隊の手に移ったが、お前は武藤らと一緒に、多分検挙されることになるかも知れん・・・お前だけを検挙しないでおけば、陸軍全体がお前という一人の候補生を使って、陰謀したことになるからね」
「分って居ります」
佐藤は犠牲の精神に燃えて言った。
「お前をそんな風に使った責任は・・・だから、陸軍ではなくて、中隊長の辻にある。お前は、中隊長をかばう必要は少しもないぞ。いずれはオレも調べられるだろうが、オレはありのままを言う・・・だから、お前もお前の思った通りのことを言え」
「ハイ、分かりました」
「刑罰があるか、無いかは、中隊長には分らん。それは軍法が決める・・・大きく言えばお前の運命が決めてくれることだ・・・そう思うよりほかないな」
「分って居ります・・・佐藤は、たとえいかような罪を被ろうとも、決して後悔などいたしません・・・喜んで罪に服します」
佐藤は中隊長をまっすぐに見つめて、言った。その態度には悪びれている風は少しもなかった。むしろ自分が犠牲となることに誇りと喜びを感じている様子だった。
その晩、夜半すぎに、辻は塚本に叩き起こされた。時計を見ると三時であった。
「何だ、いまごろ?」
事件がいよいよ始まってしまったのか、といった顔で、辻が塚本を見つめると、
「いや、九時から今まで憲兵指令部会議があったんだ。いま済んだところだ・・・いよいよやることに決まったからね」
塚本は何やら緊張の面持ちであった。
「やる?」
「検挙だ・・・事件の主な関係者を検挙することに、方針が決まった」
「そうか・・・」
辻は、溜息をもらした。
「それで、今から片倉少佐を起こして、三人で一緒に陸軍次官のところへ行こう。そして詳細を報告しよう。事は一刻でも早い方がいい・・・憲兵が動きだしたことが分かると、奴等は準備不足でも、何でも。決行しかねないからね」
「よし、それじゃ行こう」
辻はすぐ身支度した。
陸軍次官の橋本虎之助中将は、辻が参謀本部にいたときの直属上官である。
二人を乗せた憲兵隊の自動車は、夜明け前の凍るような寒気をついて駛りだした。
2021/11/28
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