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~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第二章 朧気おぼろげなる事を仮初かりそめうべないて
第二章 (5-01)
ちょうどその頃、佐藤候補生は他の四名の士官候補生とともに退校処分を受け、佐藤は所属の近歩一に帰隊いた。退校処分を受けた以上、官位剥奪はくだつになることは決まっていた。
連隊長は、この事件を起こした「厄介者」の候補生を、自室へ呼んで言った。
「佐藤、お前は剣道が強いから、剣道の教師になったらどうだ。道場を開いてだな、かたわら中学校の剣道の教師でもやったら、十分喰えるとおもうがな・・・今は、大学を出たってなかなか職のない不況時代だからな。オレの甥は、去年私立大学を出たが、いまだに職がなくてブラブラしとる・・・剣道の教師がええぞ、剣道の教師が・・・」
連隊長の言い方には、軍人らしいキビキビしたところは少しもない。まるでその辺の商売人は勤め人の口ぶりである。佐藤は外ッ方をむいた。
「お言葉を返すようですが、自分は剣道の教師にはなりたくありません。剣道には自信はありますが、それはあくまで軍人の身だしなみとしてのそれであって、軍人を逐われたのちまでもそrで喰おうとは思っていません・・・漬物屋にでも、下駄屋にでもなって、生きます」
思わず不貞腐れた返事になった。連隊長は、この体格のよい、反抗の塊りのような若者をあきれはてたような眼差しで見つめていたが、すぐ瞳をそらした。その顔には蔑むような、もはや赤の他人のような空々しさがあった。大隊副官の若い中尉が、佐藤をまた自室へ呼び込んだ。彼は、若い者は若い者同士といった、親愛を込めた言い方で話した。
「剣道の教師なんて、そんな爺臭いことはよせ」彼は連隊長の忠告には真向から反対して言った。「それよりは、貴様はまだ若いんだし・・・これから試験を受けて高等学校へ入れ」
「高等学校へ入って、どうしますか」
「もちろん、大学へ入る前提だ」若い中尉は、まるで自分が入学でもするような熱心さで、瞳を輝かせて、言葉をついだ。「大学へ入って、勉強するんだ。文科でも理科でも、何でもいい、貴様がやりたい方へ進むんだ。そしてだな・・・貴様が軍人として国に尽くそうとしたことを、社会人として、学問研究の方でつくすんだ。国のお役に立つのは、何も軍人だけの専売特許じゃない。立派な社会人の後盾がなければ、いくら軍人が強くたって駄目なんだ。軍人は独善意識が強くて、そのために社会人を軽視する傾向がある。いや、オレに言わせれば、それが日本の軍人の大きな欠点だ・・・その欠点をだな、貴様がこの際身をもって埋めるんだ。軍人として正しいことを行おうとして、ついに軍人を逐われる貴様のやるべきことは、それだ。この天が与えてくれた逆境を千載一遇の好機として、あくまでやるんだ・・・貴様には、必ず出来ると思う!」
これは理想に走りたがる若い者を刺戟するに足りる忠告であった。
佐藤は、心をゆすぶられた。
── やります・・・やって見ます!
咽喉まで出かかったが、声にはならなかった。
佐藤は思いを呑み込んで、憮然ぶぜんとした顔つきになった。高等学校から大学へ・・・そして軍人としてやろうとした奉公を、社会人として立派に果す! これは一点非の打ちどころのない理想である。だがそれだけに、それは息のつけないような窮屈なものに感じられた。軍人として正しいと行為が罪になり、地面に叩きつけられた心の痛手が、いまやそれを受け付けないのだ。── まっとうな苦労は、もう沢山だ!
「御忠告は、よく考えてみます」
礼を述べて、副官室を出た。佐藤の心の中では、若い副官の熱心な言葉は、石ころのように冷たくしぼんだ。
それに佐藤に対しては、陸軍上層部からの別な「忠告」もあったのである。
「── お前たちは満州へ行け・・・・満州国軍政部の依託学生だ。今度の事件を起こした士官候補生五名のために新設した教育機関で、研究所は吉林の憲兵訓練所内にある」
佐藤は、それを学校でも聞かされたし、連隊へ帰ってからも、それとなく勧められた。
満州 ── それは日本の国防の第一線であるし、中学生時分からの憧れの地でもあった。軍人か、しからずんば満州へ渡って馬賊の頭目になるんだ・・・その憧れが、皮肉にも軍人を遂われて実現するのか。苦笑ものであった。だが、時が経つにつれ、それは苦笑だけではコマ化せない現実の問題となった。
── 官位剥奪の処分を受けた者は、地方人といて改めて徴兵検査を受けて、二等兵からやり直さなければならない!
それが眼の前にブラさがってきたのだ。一たん選ばれた生徒として将校の直前まで進んだ者が、普通徴兵の二等兵からやり直すことは、屈辱以上の苦痛だ。
── よし、満州で何を勉強させられるのか知らないが、二等兵からやり直しの屈辱よりはましだろう・・・・その屈辱を受けないためにも、満州へ行こう!
佐藤は、そう決心した。
すると、ちょうど陸軍省から呼び出しが来て、満州へ行くか、行かないか、その決心を問いただされた。大尉の肩章を着けた年輩の課員であった。
佐藤は眼に見えない軍の手まわしを感じながら、早急に答えた。
「やらせていただきます」
それで佐藤の新たな運命が決まった。
── 満州へ!
佐藤が満州に旅立ったのは、六月初めの、よく晴れた、爽やかな日であった。母親と姉と親戚の者が二、三人、それから近歩一のかつての中隊長と中隊附の中尉とが、東京駅まで見送りに来た。
「満州は、もう真夏の暑さでしょうね」
プラットホームで姉の節子が誰にともなく言った。
「まだでしょう・・・しかしもうすぐですな。満州の暑さは格別です」中隊長が引き取って言った。「しかし、佐藤君が満州の新天地に新しい運命を切り開かれることは、いいことですな・・・わたしも、これで安心しました」
「お蔭さまで・・・」母親が低く言って、頭をさげた。発車のベルが鳴り響いた。
2021/12/12
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