~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第六章 何事か起るなら何も言ってくれるな
第六章 (6-03)
西田の胸には、事の重大さがガンガンと響いた。殊に平素からは沈着熟慮をもって知られている安藤大尉の言だけに、それは一層切迫感をともなった。
「自分としては。色々考えるところもあるし、当分の間、とうていそういうことには同意出来ない」西田は考え考え、言葉を押し出した。「社会情勢の判断、自分の希望して努力していることの程度などjから見て、どうしても賛成出来ないが、しかし諸君の立場を考えれば、やむを得ない気持もあるだろう・・・自分は五・一五事件の際にご承知のようなことにもなり、幸いに坤為地こうして生きて居るが、自分の余生については別に惜しいとも何とも思っていない・・・ところで、若い将校連中は、いずれも満州へ行かねばならず、行けば最近の満州の状態から見て、対ソ関係が悪化している折柄、むろん生きて還ることなど思いもよらんだろう。その点から言っても、国内のことを色々憂慮して苦労して来た人達が、このままで戦地へ行く気になれないのも無理はない、と思う。元来、わたしどもの原則としては、何処に居っても御維新の奉公は出来る、満州に出征するからその前に何しなければならんということは、正しい考えではないと思う。が、おれは理屈であって、人情の上からは、一概に否定することも出来ないと思う・・・以前、海軍の藤井少佐が所謂十月事件のあと、近く上海に出征するのを控えて、御維新奉公の犠牲を覚悟して、蹶起したい、という手紙を、昭和七年一月中旬頃、わたしに寄越したことがある。わたしはそjの当時の社会情勢などから、絶対反対の返事をやった。そのため藤井少佐は非常に失望落胆して、そのまま一月下旬に上海に出征し、二月五日、上海附近で名誉の戦死を遂げた。わたしから言えば、藤井少佐が、単に勇敢に空中戦を決行して戦死した、とのみ考える事が出来ない節々がある」
話しているうちに、西田の気持は次第にある一点に向かって昂揚し、抜き差しならない強固なものになって行った。西田はちょっと呼吸を整えてから、言葉を続けた。
「この思い出は、わつぃの一生で最も感銘ふかいもので、今の諸君の立場に対しても、私自身の立場が理屈以外の点で色々考えさせられる・・・結局、皆がそれほどまでに決心して居るというなら、私としては何とも言いようがない。この上は、いま一度諸君によく考えて貰ったて、どちらでもいいから、御国のためになるような最善の途を選んでもらいた。わたしは、諸君との今までの関係上、自分も一身のことは棄てます。人間にはある運命があると思う。ある程度以上の事は運賦天賦うんぶてんぶで、時の流れに流れて行くより外に、途はないと思う・・・どちらでもいいから、よく考えて貰いたい」
「分かりました。考えて見ます」
安藤大尉の顔には、来た時の苦悩の色はもうなかった。日灼したその顔には、何やら澄んだ、明るいものが漂っていた。
2022/02/19
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