~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第八章 何もかも順調に行っている・・・成功だ
第八章 (7-02)
品川駅で自動車を乗り捨てると、亀川は興津までの切符を買い、急いで汽車のホームに降りた。朝が早いせいか、まだ乗客はまばらで、博士の黒いオーバーを着た小柄な姿は、すぐ見つかった。
「先生」
声をかけると、レールの上に積もった雪をぼんやい眺めていた博士は、びっくりして振り向いた。
が、すぐ、何しに来たんだ・・・といったような、怪訝けげんそうな表情が動いた。
「私を興津へ同行させて下さい」
亀川はいきなり言った。
「何しに?」博士は白い眉毛をあげて、ゆっくりと亀川を見つめた。
「青年将校の蹶起は、やはり本当でした・・・」亀川は、高橋蔵相邸の門で見かけた状況を話して、「西田や村中から聞いた通りのことが起こっています。この分だと首相官邸も、陸軍省も青年将校らに占拠されています。五・一五事件なんかよりは、はるかに大きな規模で、容易ならん事態が起こっています・・・ですから、私を興津へお供させて下さい」
「何か事件が起こったことと、あなたが興津へ私と一緒に行くことと、何の関係がありますか」
「私を西園寺公に会わせていただきたいんです・・・とにかく容易ならん事態が起こっているんですから、事態収拾について、西園寺公に意見具申をしたいんです」
ははァ、この男はこんな風にして政界や軍部の上層の間を泳ぎ廻っているのdふぁな、と鵜沢は想像をめぐらした。だが、さあらぬ態で、
「一体、どんな意見具申をしようというんですか」
「後継内閣首班について・・・」亀川は言った。「私は真崎大将が最適任だと思うんです・・・真崎なら青年将校の気心も分っているし、また青年将校も真崎大将を信頼して絶対支持していますから、事態収拾が出来る・・・ですから真崎を首班にして、陸軍大臣に柳川平助中将を持ってくる・・・柳川中将は目下台湾軍司令官ですが、これは飛行機で呼び寄せる・・・」
「ちょっと待ってくれ給え」鵜沢はさえぎった。「君のご意見はほぼ分かった・・・が、しかし、わたしはいまだ嘗つて園公に人を紹介したことがない。わたしはいつも一人で行く。そして誰にも煩わされないで、自分ひとりだけの政治的意見を具申することにしている。それだから園公も、いつも快くわたしに会ってくれる・・・しかし、君を連れて行く、しかも非常事態について君に意見を具申させる、となると、これはわたしのいつもの習慣とは違う。それなら予め園公の御都合を聞いてからでないといけない・・・だが、今日はもうそうしている暇がないから、君を連れて行くわけには行きません。わたしは、やはりわたし一人の意見具申のために、予定通り一人で行きますよ」
おだやかな言い廻しだが、内容的にはビシャッとやられた形であった。亀川は、もはやとりつく島がなかった。そこへ列車が黒い胴体を響かせて入って来た。鵜沢は、亀川を残して、さっさと二等車に納まった。乗客はまばらである。亀川は寒いホームに佇んで、余儀なく鵜沢を見送る結果となった。
列車の快適な速度に身を任せて、窓外の雪景色に見とれていると、鵜沢は亀川のことはすぐ忘れた。あの男の言うことは、どこまで信用してよいか分からない・・・そういう先入観が、鵜沢を支配しているのである。
列車が湯河原へ着くと、二、三人の乗客と鉄道省の高級職員らいいのが乗り込んで来て、鵜沢の近くへ陣取った。その人達は、腰を下ろすとすぐ、何やら声高に話しはじめた。人が異常な事件に遭遇したり目撃したりした時の、自分もそれに興味を持ち、知らない人達にその興味を分かとうとする、あの興奮におびえた話しぶりである。聞くともなしに聞いていると、「牧野」とか「青年将校」とか「焼打ち」とかいう言葉が、鵜沢の耳に飛び込んだ。
「何かあったんですか
鵜沢は鉄道職員に訊いた。
「兵隊が、伊藤屋旅館の貸別荘に滞在していた牧野伸顕さんを、襲撃したんですよ」
鉄道員は気さくな態度で、そう告げた。
── やっぱり事実だったのか!?
鵜沢は改めて事の重大さに呼吸を詰めた。
「牧野さんは殺されましたか」
重ねて聞くと、鉄道職員は首をひねって、
「さあ、はっきり分からないんですが、多分殺されたんでしょうね。機関銃を撃ち込んで、そのうえ貸別荘に火をつけて焼いてしまったんですからね・・・護衛の警官が一人撃ち殺されたそうです」
「sの兵隊共はまだ湯河原にいるんですか」
「いや、もう引き揚げたでしょう・・・隊長らしい将校が一人傷ついて・・・護衛の警官と撃ち合って、やられたらしいですがね・・・病院に担ぎ込まれているそうでっすよ」
「そうですか・・・いや、有難う」
鵜沢は礼をのべると、眼を窓の外へやった。
── そんなことでは、興津も襲われているかも知れないな・・・?!
そうそう思ったが、しかし今更引き返しも出来ない。
── ま、行くだけ行ってみよう。
鵜沢はそう覚悟をきめた。
2022/03/26
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