~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (10-03)
松本には午後零時三十分に着いた。
添田は、支局には寄らずに、駅からすぐにタクシーで浅間温泉に向った。
秋の空は晴れ上がっていた。穂高ほだか、槍につづく北アの連山が新雪をかなりかぶって輝いていた。稲田は切株ばかりになっていた。来る途中の汽車の窓で見たのだが、一面のリンゴ畑は、赤い実が枝をしなわせていた。
浅間温泉は、ゆるやかな勾配の上にある。町はその坂道に沿って細長く続いていた。
ここでは井筒の湯だとか、梅の湯だとか、玉の湯だとかいうように特殊な名前が付いている。杉の湯は、この温泉町でも一番奥まった所にあった。すぐ奥が山の斜面だった。
添田は、旅館の前で降りた。
玄関に入ると、女中たちが迎えたが、添田は、帳場人をすぎ呼んでもらった。
「こちらに山城静一さんという方がお泊りになってませんか?」
出て来たのは、三十恰好の番頭だった。
「はあ、山城さんですか。その方なら、今朝早くお発ちになりました」
添田は、しまったと思った。昨日の電話で、滝良精氏は六日間滞在していると聞いたので、もしやとは考えたが、やはりそうだった。こんなことなら、支局の若い人に頼んで警戒させておくのだったと後悔した。
「ここから真直ぐに、東京方面に帰られたのですか?」
添田は失望して訊いた。
「さあ、何処へともおっしゃいませんでしたが」
「何時ごろですか、お発ちになったのは?」
「そうですね、七時半ごろではなかったかと思います」
「そんなに早くですか」
添田は、帳場の後ろに貼ってある時刻表が眼についた。松本発八時十三分の新宿行普通列車があるが、これかも知れないと思った。
「ぼくは、実はこういう者ですが」
添田は、名刺を出した。番頭は、それを手に取って眺めていたが、
「何か変わったことでも起こったのですか?」
と訊いた。新聞記者と知って、番頭の顔色はにわかに興味的になった。
「いや、そういうわけではないのですが、実は、ぼくの方でその人を探しているのです。ところで、その人がこの宿に着かれてから、どこかに手紙を出されたようなことはありませんか?」
「ああ、それはありました。係の女中が切手を取りに来たので、それを渡した覚えがあります」
間違いなかった。やはり山城静一と名乗る人物は滝氏だった。手紙は、世界文化交流連盟の事務局宛に出した辞表に違いない。
添田は、そこで初めて滝良精氏の写真を出した。
「こういう人ですがね。大分前の写真で、感じが若くなっていますが、よく見て下さい」
番頭は手に取って見ちたが、
「この人です。間違いありません。念のために係の女中を呼びましょう」
その女中はすぐに来た。二十七、八の背の低い、ずんぐりとした、ガラガラ声の女中だった。
「ああ、その人ですわ。でも、随分お若くとれていますね」
と彼女は写真をつくづくと眺めて言った。
「そのお客さんは」
と添田は女中に話しかけた。
「この宿に来てから、そんな様子でしたか?」
「とおっしゃいますと?」
女中は添田にねむいような眼を向けた。
「いや、つまり、なんです、特に変わった様子はなかったか、ということです」
「そうですね、そういうところは見られませんでした。静かな人で、毎日、お風呂に入っては、本を読んでらしたり、近所を散歩なさってました。上品な温和おとなしい方でしたわ」
「そうですか、そこで、この宿に居る間、どこかへ電話をかけるようなことはありませんでしたか?」
「いいえ、それはありません。電話はどこにもかけないし、どこからもかかって来ませんでした」
「もちろん、人も訪問しなかったでしょうね」
「よそからのお客様ですか?」
この時、添田の予期しない表情が女中の顔に現われた。
「お客様はありましたよ」
「えっ、誰か来たのですか」
「はい、昨夜ゆうべのことです。二人連れの男の方が面会に見えました」
添田はどきりとした。
「その話をもっと聞かせて下さい」
2022/09/27
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