~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (14-08)
タクシーで五分とかからなかった。
その料理屋は、公園の真ん中にあった。これも純日本風のこしらえである。
幾つにも仕切られている小部屋に通った。「いもぽう」というのは、棒鱈ぼうだらとえび芋の料理で、久美子は他人ひとからは聞いていたが、食べるのは初めてであった。淡白な味で、かえって空いている胃に美味しかった。
女中もみんな京言葉だし、隣の部屋で話している男連中のなまり がそれだった。こうして特色のある料理を食べながら土地の言葉を聞いていると、しみじみと旅に出たと思う。
今ごろは、母も夕膳に向っているころではないだろうか。ひとり残して来たので気がかりだった。もしかすると、従姉の節子が来ているかも知れない。
久美子はまた鈴木警部補のことが気になってきた。もう諦めて東京に引き返しているかも知れない。その前に、きっと、家に連絡していることであろう。が、従姉の節子が来ているのだったら、母の心配も、節子になだめられてそれほどでもあるまい。警部補にはちゃんと置手紙をして出たことだし、明日の朝の汽車に乗ると言ってあるのだ。
料理屋を出て、夜の公園を少し歩いた。外灯が昼のように点いているから、暗い感じはしない。公園から八坂神社の境内に道がついている。茶店の中も明るかった。
それから先に行く所がなかった。やはり知らない土地だと、夜は昼間ほどの勇気は出なかった。結局、河原町の方へ行くことにした。
だが、すぐにタクシーに乗るのも惜しく、電車通りをゆっくりと歩いた。さすがに京の街で、骨董を商う店が多い。
お菓子屋にしても、茶席のような入口の構えだった。
四条の通りまで歩いて、そこで眼についた映画館に入った。東京で見残していた洋画がかかっていた。
旅先で映画を見るのも初めての経験で、少し心細い気持のする一方、やはり気分が違っていた。見ている映画の受け取り方まで違っている。
映画館を出た時は、十時に近かった。彼女は、今度は急いでタクシーを拾い、ホテルに戻った。
玄関のドアを押して入った時、エレベーターの方に歩いている一人の男の後ろ姿が見えた。ボーイが客の手軽なスーツケースを提げている。それには航空会社の荷札がぶら下がったままになっていた。久美子は、その人物を見た瞬間に思わず立ち止った。思わない所で、知っている人に遇った時の愕きだった。
エレベーターが降りて来て、ドアが開き、その紳士はボーイと一緒に中に入った。彼女は、せっかく降りたエレベーターに進むことが出来なかった。
ドアが閉まり、上に付いた階数の指針が廻っている。
久美子は、急いでフロントの前へ行った。
「あの、今の方、村尾さんとおっしゃいません?」
事務員は、署名が済んだばかりのカードを取り出してくれた。
「いいえ、吉岡よしおかさまとおっしゃいます」
「吉岡さん?」
久美子は、眼を宙に向けた。
「人違いだったかしら? 失礼、あんまりよく似た方だったものですから」
彼女はフロントを離れたが、間違いなく、今着いたばかりの人物が外務省欧亜局××課長村尾芳生だと確信した。曾ての父の部下だったし、つい先頃歌舞伎座でも会っているのだから、間違えようがない。
村尾課長がこんぽホテルに姿を現わすのはそれほど不思議でないとしても、なぜ、彼は吉岡などという偽名を使っているのだろうか。──
これは、あとでひとりでエレベーターに乗っている時に起こった久美子の疑問だった。
2022/10/20