~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (25-05)
釣りをする男が竿を大きく振っていた。魚をあやつっている動作だった。
ふと、気が付くと、紳士は胸からハンカチを取り出して、黒眼鏡をかけたまま自分の顔をぬぐっていた。
暑い季節ではない。むしろ海の風が寒いくらいだった。紳士は久美子の注目に気が付いたらしく、
「どうも、波の飛沫が顔にかかっていけない」
と独り言を言った。
「ぼくは」
と紳士があとを急いで言った。
「明日は、日本を離れることになっています」
「まあ、ご帰国なさるんですか?」
紳士は坐ったまま上体を少し動かした。
「日本での最後の日に、お嬢さんのような方に遇えたのは、有難かったです」
「・・・・・」
「ぼくは日本に来て、ほんとうにお嬢さんのような人と話したかったんです。だから、今、あなたと話をするのが、とても愉しいんです」
その言葉は、久美子にも嘘はないように思われた。事実、このフランスの老紳士は、先ほどからその喜びを顔いっぱいに表していた。が、、それは外国人流の露骨な表現ではなく、感情を抑えた様子だった。これも日本人の性格だった。
「愉しかった」
と彼は言った。
「お嬢さんにお訊きしたいのですが」
「何でしょうか」
「ぼくをどう思いますか?」
突然の質問だった。久美子はとまどったが、率直に自分の感じを言った方がいいと思った。
「とても・・・とてもいい方のように思います」
それではまだ自分の気持が言い尽くせなかった。
「・・・親し方にお逢いしたようですわ。自分の一番懐かしい人に逢った気がするんです」
「ほう」
紳士がこちらを向いた。深い眼差しが久美子の顔をつくづくと眺めた。
「そう思ってくれますか? ほんとにそう思いますか?」
「ええ、失礼なんですけど」
「とんででもない。有難う。有難う。お嬢さんからその言葉を聞いて、ぼくはとても嬉しいと思います」
「もっと早くからお近づきになって、奥様とご一緒にいつまでもご交際しとうございました」
「その点、ぼくも残念です」
紳士は顔を大きくうなずかせた。
「お嬢さん、お願いがあるんですが」
「はい」
「いま言ったように、ぼくは明日日本を発ちます。それでその思い出に、ここでお嬢さんにぼくが子供のころに習った歌を歌ってあげたいのです。聞いて頂けますか」
「・・・・」
「いや、童謡ですよ。子供の歌です、うまく歌えませんが」
久美子は微笑した。
「どうぞ、お聞かせ下さい。どうぞ」
老紳士は明日日本を去るという。日本の童謡を歌いたくて聞き手に飢渇きかつしていると直感した。事実、久美子が承知すると、対手は喜んで、姿勢まで変わった。海の方を向いて背を伸ばしたのだった。
老紳士が歌った。歌詞の半分を忘れているようだったが、それに久美子があとをつけた。二人に歌は海の音にとこどき取られた。
野上顕一郎は自分でも低声こごえで歌いながら、全身に娘の声を吸い取っていた。
カラス、なぜなくの
カラスは山に
かわいい七ツの子があるからよ
・・・・・・・・
・・・・・・・・
合唱は波の音を消した。声が海の上を渡り、海の中に沈んだ。わけのわからない感動が、久美子の胸に急に溢れて来た。
気づいてみると、これは自分が幼稚園のころに習い、母と一緒に声を合わせて、亡父に聞かせた歌だった。
2022/12/26