~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
由良の日々 Part-07
気分を紛らわすためもあって義昭は、一日、由良からさほど遠くはない日高の道成寺どうじょうじに春日とともに足を向けた。道中、藤長に輿の中からなにかと声をかけてくる。その声に胸高まり、気もそぞろとなる藤長であった。
国司紀道成きのみちなりの名に由来するこの寺は、法相宗から真言宗に転じ、のち、江戸時代には天台宗にいたっている。
六十二段の石段を登り切り、朱塗りの山門をくぐり抜けると、右手と左手に現れる三重の塔と雄大な本堂に目を奪われた。
名高い“道成寺縁起”は何もこの寺自体の説話でもなかったが、土佐光興とさみつおきのおどどろしい筆さばきが安珍あんちん清姫きよひめのものがたりを展開させる。
内容とはかかわりなく義昭は、吊鐘にぐるぐると身を巻きつける大蛇の顔に信長の顔を見た。大蛇はやがて鐘の焼けるとともに身を滅ぼすというものであって、義昭は“縁起”の巻尾に著名を加えた。
道成寺から帰った義昭は、しきりに実朝の墓に詣でるるようになっていた。
冬の氷雨に濡れそぼった五輪の苔蒸した搭は、実朝の末路を物語るかのようで、義昭にいつまでも手を合させていた。自らが鎌倉幕府最後の将軍で死に果てることを、実朝はすでに予想していたふしが、その残された歌によっても伺われる。実朝のその哀れさと非業の最後に義昭は涙をさそわれた。
しかし、義昭はまだすべてをあきらめたわけではなかった。実朝の哀れさに同情はすれ、流れのままに身を任せる弱さを持つものではなかった。まだ毛利が残されている。毛利をこの手で動かしさえすれば、信長と充分に戦うことは可能だと義昭は確信する。
「毛利へ」
義昭は、翌天正四年正月早々、その決意を藤長ら側近に表明してみせた。
この新たな旅立ちに、藤長だけはふさぎ込み、毛利との連絡に積極的に立ち働くべきことを怠った。
藤長の春日に対する苦しい胸の内を知るよしもない義昭は、煮え切れぬ藤長の態度に連日苦り切った表情を見せていた。
年老いての恋と言ってしまえばそえれまでだが、藤長はもう春日の顔を見ることさえ辛く切なくなる己をもてあましていた。誰にも言えぬ許されぬ胸中を、藤長一人は苦しみ悩む日々を送っていた。
毛利からの連絡はないものの、動座は義昭の一方的な決断で着々と準備されていった。
二月八日。義昭は実朝の墓に詣でた後、興国寺をあとにした。由良の湊から船は一路、備後へとまたふたたびの流浪であった。しかし、その船中に藤長の姿はなかった。
2023/05/13
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