~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
本能寺 Part-03
秀吉が信長の死を知ったのは、六月三日の深更である。
光秀は信長を倒した後、義昭の内書に従うが如く即座に密使を小早川隆景のもとに派遣したまではよかった。が、密書を携えた使者が秀吉側陣所で捕らえられ、逆に変事の詳細が先に秀吉に知られることになってしまっていた。
信長の死を秘して秀吉は和議を急いだ。その夜のうちに毛利側でも気心の知れている安国寺恵瓊を呼び寄せて告げた秀吉の条件は、領国の一部割譲と高松城主清水宗治が切腹するならば、すべての包囲を解いてただちに撤兵するというものであった。恵瓊はこの条件を秀吉の温情とみて喜んだ。信長の死をまだ知らぬ恵瓊は、包囲を完了した秀吉の報告によって、いまにも信長が大軍を率いて備中に押し寄せて来るのではなかと怯えていた。
そうなれば、毛利は滅びるだろう。和議は宗治には気の毒ではあったが、毛利にとっては渡りに船といえた。
元春、隆景の了解を取って、恵瓊は和議を秀吉の指定した翌四日に結んでしまった。
毛利側が信長の死を知ったのは、六日の夕刻であった。すでにこの時、秀吉軍は撤兵準備をはじめていた。
追撃を主張する元春に、和議成立を無視すれば宗治の死が犬死にとなり、約束は約束として重んじるべきであると隆景が強く押しとどめたという。
元春の悔しがったということの意味をようやく理解した義昭は、
「して、猿めはどうした」
と、昭光にたたみかけるようにして尋ねていた。
「毛利勢の動かぬ事を確認して後秀吉は、おりからの風雨にもかかわらず撤兵を開始し、備中を去ったとのことにございまする」
そこまでのことを息をも殺して聞いていた義昭は、やっと大きく一つ息を吐いてのち、
「去ったのか」
と、がっくりと肩を落とした。
光秀と毛利が協力していれば、秀吉勢を備中でなんなく殲滅出来たはずである。と同時に、義昭自身の帰洛も即座に実現していtだろう。そう思うと義昭には、秀吉にみごとに出し抜かれた毛利のバカさ加減と、使者を毛利にだけ発し、この義昭にも贈らなかった光秀に腹立たしさを覚えずにはいられなかった。
あたら好機を逸した光秀と毛利に毒づきはしたものの、そののち気の落ち着けた義昭は、
「まあ、よいわ」
と、自らをなだめるようにつぶやくと、机の向った。
一番の子機が去ったとはいえ、今からでも遅くはない。
すぐさま毛利が都の向って進撃し、光秀と力を合わせ、帰洛の実現に邁進せよといった内書を書いて、翌早朝、昭光にそれを持たせて安芸の吉田に馬を飛ばさせた。
が、その夜更け、鞆の常国寺御所に戻って来た昭光の報告によれば、毛利には動く様子はまったく見られないとのことである。秀吉とは講和しており、軽々に動くことは出来ない、いましばらく将軍家には時節を待ってもらいたいとは、隆景の言葉であったという。
「時節を待てじゃと。いまがその時節ではないか」
思わず義昭は、眼の前の昭光に向かって怒声を発していた。
しかし、毛利が動かぬ以上、義昭としてはどうすることも出来はしなかった。いらいらしながらも、だが、前途にはこれまでにはなかった明りのようなものは、期待できた。とのかく信長が失せたのであり、鉄壁ともいえた織田軍団に亀裂が生じたことは間違いはなかった。
信長によってまとまりかけていた天下が、ふたたび大きく動きだす。
この状況分析は、あながち見当はずれなものとも言えなかった。光秀の起こした渦によって、天下が再び大きく乱れだす可能性は、当時としては充分に考えられた。各地の諸大名たちも、驚きつつも織田軍団の崩壊を期待していたといえる。
毛利が動かなかったのも、何も秀吉との講和を律義に守り抜こうとしていたわけではない。
今後の光秀の動きによって織田軍団がどうなるかを見定めよとしていたのに過ぎない。崩壊せぬまでも、分裂し、弱体化すればつけ入る隙はいくらでもあった。動きだすのは、それを見届けてからでも遅くはない、急いで天下を伺う賭けに走る必要もないという毛利本来の態度であった。
気を取り直した義昭は、さらに光秀に内書を書き送り、こうしてはおれぬと、かつての家臣であった細川藤孝にも内書を書いて藤長に直接届けさせることも考え、他にもあれこれ内書を発する相手を胸に浮かべつつ、筆を取った。
義昭にとっては拾ったも同じような幸運であったと言えた。
2023/05/30
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