~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
ふたたび鞆へ Part-02
昌山が体の不調をうったえるようになったのは、八月に入ってからであった。
細川幽斎が昌山の不調を聞きつけて、丹後の田辺からわざわざ見舞いに駈けつけて来た時には、昌山の病勢はまだそれほどでもなかったと言える。
しかし、そののち背に腫物ができ、それが日を置くごとに大きくなり、痛みも加わって膿んできた。藤長が膿をいったんは絞り出したが、一夜を明けると腫物はもとも大きさにもどっていた。
たかが腫物と楽観していたが、痛みはますます激しくなり、苦しがる昌山に、春日の局は近くの神社に病気平癒を願って参詣し、藤長ら側近たちも顔色が変わってきた。
「案ずることはない。腫物なれば、根さえ取れれば平癒するものじゃ」
そう言って心配する藤長らに逆になだめるように言葉をかけていた昌山ではあったが、ついに八月二十七日の夜、激痛と高熱にみまわれ、叫び出すありさまとなった。
槙木嶋昭光が鞆の安国寺に駈けつけ、医者を連れて来たのは真夜中であった。
医者が薬を塗り、灸を据えたのが効いたのか、しばらくは高熱のためにうなりつづけていた昌山が、やがてやすらかな寝息をたてはじめたことで、皆を安堵させた。
その夜は春日の局が額を冷すためもあって、寝もせずに付き添うこととなっていた。
医者の手当てが効いたのか、腫物の皮が破れ、中から血の混じった膿が多量に吹き出したのを期に、熱は急激に下がっていったが、昌山は次の日も眠りからさめず、春日の局がわずかな時間その場を離れたそのすきに昌山の息は止まっていた。
まるで隆景の後を追うようにしての、昌山の死であった。
戦国動乱の渦を掻きまわしたこの男の死に様としては、それほど劇的でもなく、静かな旅立ちであった。
昌山の突然の死を知った秀吉は、今更ながらに己の年令を顧みて愕然となっていた。昌山とは秀吉は同年である。しかし、まだ己が築いた豊臣政権はこれからという時でもあった。
昌山のように突然とも言える死がいつ来ぬともわからぬことに怯えを感じだした秀吉は、政権の安定を急がねばならぬことを痛感した。嫡子の秀頼はまだ幼い。
秀吉は一度握った権力をなにがなんでも幼い我が子に継がせようと必死になり、それは人間の本能としては自然とも言えたが、ために昌山のようにあきらめ同然の果てに辿り得た境地を見ることもなく、依然としてその修羅場から抜け出せなかったところに不幸があった。
死ぬまで我が子の行く末を案じつつ、のちのちに心を残す死に様を見せた。
ともあれ、昌山の葬儀は足利将軍の菩提所である京の等持院で行われた。
秀吉の命令によって戒師は鹿苑院の西笑承兌がつとめた。昌山の遺体は藤長ら側近たちが担ぎ、方丈の書院に安置した後、荼毘にふされた。
焼香には、かつての側室であった大蔵卿も姿を見せていた。春日の局はむろんとはいえ、別れて久しき女が己の死を悲しんでくれていると知ったら、昌山としては満足ででもあったろうか。昌山には昌山としての、やはり男の魅力であったということかも知れない。
昌山の子義尋ぎじんは、そののち秀吉に対して昌山の跡をうけて足利将軍を継ぐことを願ったが、秀吉はこれを許さなかった。
秀吉としては第二の義昭が誕生しては、先々不安の種を残すことになりかねないと思ったことだろう。
その秀吉の死は、翌年の慶長三年八月であった。
その後、関ヶ原の戦いがあるにせよ、動乱は昌山の死と秀吉の死をもって終結したといえる。
俗名足利義昭。法名霊陽院殿准皇后昌山大禅定門。
位牌所は相国寺養源軒にある。が、墓は現存しない。
2023/06/19
= = 完 = =