~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
スタスタ坊守 Part-05
それから一月ほどった。
ある日、まだ日ざかりの時刻に多摩方面の出稽古でげいこから帰って来た近藤が、裏の井戸端で足をすすぎながら、
「その辺にとしは居るか」
と、大声で呼んだ。
歳三が道場から出て来て、のっそり横に立った。
「なにかね」
と歳三は言った。近藤は足の指のまたを洗っている。
「日野宿の佐藤さんのところで、八王子から流れて来たうわさを聞いた」
「どんな?」
歳三は、警戒している。例の一件が近藤の耳に入ったのではないかと、思ったのだ。
「八王子の比留間道場が、当分道場を閉めるてえうわさだ。きいたかね」
「きかないね」
「こいつは愉快だ。早耳の歳三といわれた男が」
近藤は、大口をあけて笑った。
「存外どんだな」
「鈍だとも。いったい。何だって一時あれほど活気のあった道場を閉めたんだ」
「門弟のたちが悪すぎるんだってよう。あの道場は先代までは、八王子千人同心だけを相手に細々とやっていたんだが、当代になって、上州から流れて来た七里研之介などというえたいの知れぬ奴を師範代にかかえたために、道場の品格がくずれた。七里のやつ、道場経営のためと称して、八王子近在から甲州にかけての博徒を集めて剣術を習わせたものだから、道場の内外でこの連中の喧嘩刃傷沙にんじょうざたがたえない。とうとう八王子がしらの原三左衛門どのが仲に立って、道場の風儀を改めることになった」
「七里は?」
「追われたそうだ」
「ふむ?」
歳三は、複雑な顔をした。
「なんでも」
と、近藤は手拭で足をぬぐいながら、
「道場の連中二、三人を連れて、京へのぼったそうだ。これからの武士は京だ、と吹いてまわっていたらしい。どうせ、流行はやの攘夷浪士のでもなって、公卿くげ御輿みこしにかついで公儀こまらせをする気だろう」
(これからの武士は京、か)
歳三は、考え込んだ。
(武士は京。・・・)
が、この時べつにまとまった思案があったわけではない。
この思案がにわかに実現化したのは翌年の秋、になってからである。」
2023/07/24
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