~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
与兵衛の店 Part-05
その夜、お雪の家を出たのは。夜いぬノ刻さがりであった。
星が、満天に出ている。
歳三は、油小路あぶらこうじをさがって、越後屋町えちごやまちという一角に出た。
どの家も戸をおろしていたが、この町に、四兵衛という、酒と甘酒を売る店が、一軒だけあいているのを、歳三は知っていた。
そこへ入った。
先に客がいる。歳三は、甘酒を注文した。
「甘酒かね」
と笑ったのは、親爺おやじの与兵衛ではない。すみの暗がりにすわっている先客である。笑いながら、鯉口こぐちを切っていた。
歳三は、少し離れた床几しょうぎに腰をおろした。
「七里かね」
落着いている。
この執拗しつような甲源一刀流者は、諜者ちょうじゃでも使ってお雪の家に歳三がときどき行く、というところまで突き止めているのだる。ひょっとすると今夜も、歳三がお雪の家を出るところから、七里の
諜者がつけていたにちがいない。
七里自身、先廻りしてこの与兵衛の店に入り、往来を見張っていたものだろう。
「甘酒とは、優しいな」
と、七里は自分の床几から立ち上がって歳三のそばへやって来た。
「やるのかね」
と歳三。
「やらないさ」
七里は、歳三の向いに腰をおろした。前に、自分の徳利、杯、さかなの皿を、コトコト並べながら、
「おたがい、縁が深すぎる仲だが、こうして二人っきりで差し向かいになったのは初めてのようだな」
と言った。
歳三は、黙っている。
「土方、今夜はゆっくり語ろう」
「ことわる」
と、歳三は顔をあげた。甘酒が運ばれて来た。
「話さないのかね。いかに縁が深くても喧嘩けんか縁じゃ仕様がねえとこのおれは思うんだが、お前が話さねえというならこいつはどうにもならねえ。執念ぶけえこった」
「執念深くたたりゃがるのは、そっちの方だろう。堀川じゃ、あやうく命をおとしかけた」
「土方、お前は生まれ落ちる時に、どなた様に願をかけたか知らねえが、ずいぶん冥加みょうがなことだ。しかしどうだろう。おれもこんな因縁いんねんめいた仲てのはしょうにあわねえから、二人で因縁切りの修法しゅほうをやってみねえか」
「二人でかね」
「お前も、土方歳三といわれた男だ。男と男の因縁切りの修法に、助人すけっとや加勢を呼ぶことはすまい」
「お前は?」
「七里研之助だ。古めかしいが熊野誓紙に書いて渡してもいいぜ。もっとも土方、お前の方はあて・・にゃならねえが」
「武士だ」
歳三は、短く言った。武士である。遺恨は一人対一人で始末をつけあうべきだろう。── 七里研之助 も歳三が当然そう答えることを期待していたようにうなずき、
「お前の武士を信じる。時は、後日を約するとおかしな水も入るだろう。いますぐ、はどうだ」
「場所は?」
と歳三は言いかけてすぐ畳込んだ。
「おれにまかせるだろうな。受けた方が決めるのが定法のはずだ」
七里に指定させると陥穽かんせいがあるかも知れないと思ったのである。
「二条河原なら、人は来るまい」
「よかろう」
と言って七里は、すぐ奥へ声をかけた。
「親爺、駕籠かご二挺にちょう呼んでくれんか」
2023/10/15
(下巻へつづく)