乳母には、平大納言時忠の奥方が選ばれた。これは後に帥典侍と呼ばれた人である。
法皇はやがて、御所へ還御になったが、清盛は余りの嬉しさに、お土産にと、砂金一千両、富士錦二千両を進呈したのは、今までに類のないことだけに、人々に異様な感じを与えたようである。
今度の御産ごさんにあたっては、変わったことがいろいろあった。その第一は、何といっても、法皇が、自ら祈禱者として、祈られたことだったろう。その第二は、后きさき御産の行事として、御殿の棟から甑こしきを落す習慣があり、皇子の時は南、皇女の時は北と決まっていたが、この時には間違って北に落してしまい、慌てて落し直すという珍事ちんじがあった。悪い前兆なければよいが、と思った人もいたらしい。
一番面白かったのは、清盛の日頃に似合わぬあわて方であった。重盛は、例によって、少しも騒がないところは立派だったが、気の毒だったのは、宗盛が奥方を難産で失い、職を一時やめて引き籠ってしまったことである。この奥方は、最初、皇子の乳母になる予定の人であっただけに、突然の逝去は惜しまれた。
面白い話では、七人の陰陽師おんようしが呼ばれて、千度のお祓はらいをした際のことだったが、中に掃部頭時晴かもんのかみときはる
という老人がいた。供も少く人の群を、かきわけかきわけ進む内に、右の沓きつを踏み抜かれてしまった。あわててまごまごしている内に、冠までも落されてもとどりがむき出しになってしまった。きちんと礼装をつけた老人が、冠をとられてまごついている恰好はどうにもおかしく、見ていた公卿殿上人はわあっと笑い出してしまった。
とにかく今度の御産には、その他いろいろ不思議な事もあったが、その時はたいして気にもならなかったことが、後から考えると、成るほどと思うことが多かった。
公卿殿上人は続々お産のお祝いに、清盛邸へ集まり、その時不参の人々も後からもれなく、お祝いに集まったようである。
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