~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
富 士 川 (三) ♪
十月二十四日早朝六時、富士川で源平の矢合せと決まる。その前夜である。決戦を控えて緊張した平家の侍どもが、対岸の源氏の陣を見渡した。野に火が上り、海に浮び、河にうつる。おびただしい火の大群である。これらはいずれも合戦に怯えた伊豆、駿河の人民百姓が野に隠れ、船で逃げ、炊事した火であったが、夜対岸から見れば陣営の遠火とおびとも見える。驚くべき大軍じゃ、野も山も河も源氏の勢で埋められたるぞ、とその狼狽ろうばいは一方でない。おののき恐れる心を押さえて、不安の夢をむさぼっていた夜半、富士川より突如大音響がひびいた。雷にもまた大風に似た恐ろしい響きが平家陣を一度に揺り起こした。何の物音に驚いたか、夜半俄かに飛び立った富士の沼の水鳥の羽音であったが、すでに源氏の遠火で十二分に心胆を寒からしめた平家の侍にとって、伝わる響きを判別するゆとりはなかった。源氏の夜襲か、と疑心に口走る叫びが伝われば、どっと浮足立つのは当然であろう。
昨日きのう斎藤別当実盛が申したように、甲斐、信濃の源氏が搦手より廻ったのではないか、包囲されてはかなわぬ、敵は何十万騎あるかも知れぬ、ここを捨てて尾張川、洲股すのまたを防げ」
と言う、いささか理屈にかなった説が飛び出すようでは、この混乱も収拾がつくはずはない。口々に叫びをあげながら、一目散に闇夜を走り出す。武器も家宝も鎧もあったものではなかった。弓を摑めば矢を忘れ、太刀を握ればさやだけ残し、人の馬には自分が乗り、日頃自慢する自分の愛馬には他人がしがむつく。手近な馬に殺到するから馬のつないだのさえ判らぬのである。安全地帯めざして本人は一気に疾駆しているつもりだが、陣屋の廻りを必死に堂々めぐりする勇敢な武士もいた。陣営でさえこの調子であったから、浩然こうぜんの気を養うと称して、付近から遊女をかき集めて酒宴深更に及び、桃源の夢に耽っていた侍たちは、ほとんど半狂乱であった。頭を蹴割られ、腰骨を踏み折られた遊女が、闇の中で泣き叫ぶ、水鳥の羽音の最大の被害者はこのへんであったとも思われた。
夜は白々と明けた。静かな暁である。定められた六時、勢揃いした源氏は天にもとどけとときの声を三度あげた。関東武士の野生をおびた声が朝の空気をふるわせた。平家の陣は死んだように静まりかえって物音一つない。敵の策かとしばし様子をうかがったが、やがて偵察の侍が放たれた。
「人みな逃げ落ちています」
あきれ顔で報告すれば、やがて敵の忘れた鎧を手にして戻る者、平家の大幕をかついで帰る者、いずれも口を揃えて言うのである。
「平家の陣には蠅一匹飛んでおりませぬ」
これを聞くと、頼朝はさっと馬から降りた。兜を脱ぎ、手水ちょうずうがいをして身を浄めると、京都の方を伏し拝んだ。
「これは頼朝一人の手柄に非ず、ひとえに八幡大菩薩のおんはからい」
院宣を賜ってからの最大の危機に、一兵も失うこともなく勝利を得た武将の当然ともいえる感慨であった。
すぐ討ち平らげて、領地とするところであるからと、駿河お国を一条次郎忠頼、遠江国を安田三郎義定に預けて守護職とした。平家を追い討ちにするには今こそ、という意見もあったが、後方もまだ固まらず不安である、と頼朝は兵を収めると駿河から鎌倉へ戻った。
一方、この平家の醜態はしばらく東海道の宿場宿場の遊女たちを楽しませた。
「何て立派な大将軍なんでしょうね。戦いで見逃げした男は卑怯者の典型というのに、平家の方々は聞き逃げ遊ばしたのよ」
と手を拍って笑いこけていた。まことに平家はこのものたちに豊富な話題を提供したが、それにつれて秀逸なる落書らくしょも多かった。
都にいる平家の大将軍を宗盛といい、討手の大将を権亮ごんのすけというので、平家を「ひらや」と読んで
ひらやなる むねもりいかに 騒ぐらん
    柱とたのむ すけをおとして
また富士川をおりこみ
富士川の せぜの岩越す 水よりも
    はやくも落つる 伊勢いせの平氏かな
また、上総守忠清が、富士川に自分の鎧を棄てたまま素早く退散したのを巧みに詠んだのもあった。
富士川に 鎧は棄てつ すみぞめの
    ころもただよき 後の世のため
ただきよは にげの馬にぞ 乗りてける
    上総かずさしりがい かけてかいなし
2024/02/17
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