~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
奈 良 炎 上 (一) ♪
京では、奈良興福寺が三井寺と手を組み、高倉宮を受け入れたり、あるいは迎えに兵を出すなどの行為は、明らかに朝敵であると断じた。奈良には、平家が攻め寄せるとの噂が伝わったので大衆は一斉に騒ぎ出した。これを聞いた関白はことを穏便に計ろうと有官うかん別当忠成べっとうただなりを使者として立てた。
「言うべきことあらば申し述べよ、何度でも奏上して仕わそう」
と言うのである。奈良にこの意を体して赴いた別当忠成の鎮撫ちんぶの言は、いきり立った興福寺の大衆の耳に入らなかった。まして年来平家に対して憎悪の念を抱き続けて来た寺である。兵が攻めるとの噂にも殺気立っていた。大衆はどっと忠成を取り囲んだ。
「乗物から引きずり下ろせ、かまわぬからもとどりを切ってしまえ」
と口々に叫ぶ。忠成は青くなって逃げ帰った。次に使いとなった右衛門督うえもんのかみ親雅ちかまさも大衆から同じ待遇を受けたが、二人の雑色ぞうしきが髻を切られてしまった。
二人の使いを追い帰した奈良では、余勢をかつて毬杖ぎっちょう の玉の大きなものを作り、目鼻をつけるとこれを入道清盛の首と称して、踏め、打てなどはやし立てる中を、玉を蹴り、棒で叩くなど大いにいうれいを晴らしていた。天皇の外祖である入道にこのような仕打ちをするのは、天魔の仕業であるという非難も多く聞かれた。
清盛は大衆を鎮める決意を固めたが、ことは慎重に運ばれた。瀬尾太郎せおのたろう兼康かねやすを大和国の検非違使に任じ、五百余騎を率いて奈良に向うことになったが、出発の時清盛は更に慎重な注意を与えた。
「衆徒はいま気が立っておるが、奴等が狼藉ろうぜきに及ぶとも相手になるな。甲冑も弓矢も共に避けよ。こちらから打って出ることは断じてまかりならぬ」
兼康は武装のない兵五百余騎とともに奈良へ着いたが、もとよりこの間の事情を大衆が知るはずはない。すわ敵寄せたるぞ、とこれを囲み六十四人を捕縛するや一人一人の首をはね、猿沢さるさわの池の端にずらりとかけ並べて見せしめとした。兼康からの報告をきくと今度は清盛も心底から怒った。
「隠忍もこれまでじゃ、奈良を討て」
たちまち大軍が揃えられ、大将軍に頭中将とうのちゅうじょう重衡しげひら中宮亮ちゅうぐうのすけ通盛みちもりが任ぜられて、総兵力四万余騎奈良へ実力行使と進発した。一方奈良の大衆老若合わせて七千余人、武具に身を固めると、奈良坂、般若寺の二ヶ所の路に掘割をい作り、楯垣を並べ、逆木さかきを引いて防備を固めて待ち受けた。
平家は四万余騎を二手に分け、奈良坂、般若寺からの挟撃態勢をとると、どっとときの声を上げて、一気に攻め込んだ。奈良の大衆は必死に防いだが、こちらは徒歩、対手は騎馬である。しばし応戦するうちうに崩れ出した。騎馬が縦横に駆け廻れば、大衆の大半は討ち取られてしまった。この日朝六時の矢合わせから一日戦ったのであるから、大衆必死の防戦は相当手強かったわけである。日が落ち夜になると、奈良坂、般若寺の二つの城郭は時を同じゅうして破れた。勢いに乗る平家は怒涛のように攻め込んで来る。この日衆徒の一人、坂野四郎さかのしろう永覚ようがくという剛の者、弓矢太刀とれば十五大寺に並ぶ者なしと言われていた勇猛な僧であったが、萌黄縅の鎧に黒糸縅の腹巻を重ね、帽子兜ぼうしかぶとに五枚兜のをしめ、白柄しらえの大長刀、黒漆の大太刀を左右の手に握り、同宿の僧十余人を前後左右に率いると、手蓋てがい の門より打って出た。剛力に任せて水車のように打ちふるう大長刀で馬の足をがれた平家の勢少なくなく、討ち果された兵も多く、永覚はしばし少勢でここを支えていたが、新手を次々にくり出して襲いかかる寄手のために同宿の者はみな討ち死にし、やがて、彼も南をさして唯、一人落ちていった。
2024/02/22
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