~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
横田河原合戦  ♪
将門まさかどの追討会が行なわれた後、純友すみとも追討のために伊勢神宮へくろがねの鎧兜よろいかぶとをたずさえた勅使が下向した。勅使、祭主神祇じんぎ権大福ごんのたいふ大中臣おおなかとみの定高さだたかは、近江国甲賀こうがで病を得、伊勢の離宮につくと間もなくしんだ。又、源氏調伏のため、立壇の法を行なっていた降三世ごうさんぜ大阿闍梨だいあじゃりは、大行事権現の、彼岸会を行なう所で眠ったまま死んだ。このよう、源氏調伏のために行なわれる神事仏事には、一々差し障りが起こるばかりで、どうやら神仏も。、今や平家を見捨てたかのようである。また、安祥寺あんじょうじ実玄阿闍梨じつげんあじゃりは、平家調伏を祈って問題になり、呼び出されて問い詰められると、実玄は、
「朝敵を調伏せよとというご命令でござりましたが、つらつら近頃の様子を見ると、どうやら朝敵は平家の事らいいので、私も別に罪とも思わずにいたしましたが」
と平気な顔で申し立てた。
「怪しからんことを申す奴だ、死罪か流罪か」などと騒いでいるうちに、いろいろ内外多事だったのでつい忘れてしまった。後、源氏の天下になってから、頼朝は、実玄の勇気に感じて、大僧正の「位を贈ったといわれる。
その頃、中宮は、院号を賜わり建礼門院となった。天皇が幼くて母后ぼこうが院号を賜ったのはこれを以てはじめとする。
養和の年も二年を迎えて、二月二十一日、金星が昴星ぼうせいの星座に侵入した。天文要録という書物には、天空にてこういうことが起こるのは、四方に乱が起こり、国が乱れる兆である、と記されていた。また将軍が勅命をうけて、国境を出るとも言われていた。
三月になるrと、新たに官の移動があり、平家の一族が、ほとんど昇格した。
さきの権少僧都ごんしょうそうず顕真けんしん日吉ひえの社で法華経一万部を転読した。その際法皇の御幸みゆきがあったが、どこから噂が飛んだものか、後白河院が、山内の大衆に、平家追討の院宣を下したという話がまたかく間にひろまった。すわ一大事と、軍兵は内裏の四方を固め、平家の一族は六波羅へ参集した。本三位中将重平は法皇をお迎えするために、三千余騎で日吉の社へ駆け付けた。
すると、又々平家が山門を攻めるため、数百騎が山に向かったという風説が飛んだ。これを聞いて驚いた山内の大衆は、ふもとの東坂本まで下り、応戦の準備のための会議が開かれる始末であった。山内はいうに及ばず、洛中洛外も大変な慌て方で、法皇のお供をして日吉について来た公卿殿上人も青くいなって震えていた。三位中将重衡は穴太あのうあたりで、法皇の一行と落ち合い無事に御所まで送り届けた。これでどうやらこの根も葉もない騒ぎは決着がついたのである。「物詣ものもうでさえも自由にはならぬ世じゃのう」と法皇も嘆息されたという。
五月二十四日再び年号が変り、寿永じゅえいとなった。同じその日、城太郎助長すけながの弟助茂すけもちが、越後守に任命された。不吉な兄の死を目前に見ているだけに、助茂は極力辞退したが、勅命とあっては仕方なく、その代わりせめて縁起のよいようにと名前を長茂ながもちと改めた。
九月二日、長茂は木曽追討のために、越後、出羽、今津四郡の兵四万余騎を率いて出発、信濃国横田河原に陣を構えた。
その時、依田城よだのじょうにあった木曽義仲は、急を聞いて依田城を出、これも横田河原に向かった。その勢ざっと三千余騎である。敵は多勢、わが方は小勢、まともにぶつかったのでは勝味がないと、井上九郎光盛という者の提案により、急いで赤旗を七流れつくり、三千余人を七手に分って、あちらこちらから赤旗を先頭にして迫っていった。長茂はこの様子を見ると、
「この国にも平家に味方する者があるらしい。これで当方も力がついた。各々方、ひるむな、退くな」
と、俄かに勇み立って進んで来た。その時、時を見計らっていた木曽勢は、時来れりとばかり、七手の軍勢を一手に集め、用意した白旗をさっと掲げると、一度にときの声をあげた。越後勢は、急に現れた源氏の白旗と、時ならぬ鬨の声にあわてふためき、よくよく見きわめもせずに、
「敵は、何十万という大軍じゃあ」
と色を失ってまごまごしているところへ躍り込んで来た木曽勢のため、川に突き落とされ、断崖だんがいから転がり落ち、その殆どが次々に討たれる有様で、長茂も傷を負いながら、辛うじて川伝いに越後国へ逃げ帰った。
ところでその頃、都では、敗戦の報もどこふく風という調子で、宗盛が大納言になり内大臣に任命され、そのお祝いの宴が、華やかにくり拡げられていたのである。東国、北国の源氏が虎視眈々こしたんたんと都に目を向け、牙を磨いているというのに、これは余りにも呑気のんきな、時局認識に乏しい平家の有様であった。
まもなく寿永二年の正月が来た。宮中の諸式は、普段と何一つ変わりなく行なわれた。
二月になって宗盛は、さすがに諸国の戦乱に責任を感じ、内大臣を辞任して引きこもった。
今や、南都北嶺の僧、熊野金峰山の僧から、伊勢大神宮の祭主神官の」末々まで、誰一人として平家に味方する者はいなかった。諸国の到るところ、源氏の白旗が翻り、大将軍の下知を待ちながら、戦の準備に余念がなかった。
院宣も宣旨も、こうなっては何の効き目もなく、平家の運命には次第に暗雲が低迷してゆくのである。
2024/03/07
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