~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~ |
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== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新 潮 社
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砲 煙 (五)
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それから六日後に五稜郭は降伏、開城した。総裁、副総裁、陸海軍奉行など八人の閣僚のなかで戦死したのは、歳三ただ一人であった。八人の閣僚のうち、四人まではのち赦免されて新政府に仕えている。榎本武揚、荒井郁之助、大鳥圭介、永井尚志(玄番頭)。
死体は、函館市内の納涼寺に葬られたが、別に、碑が同市浄土宗称名寺に鴻池の手代友次郎の手で建てられた。
肝煎きもいりは友次郎だが、金は全市の商家から献金された。理由は、たった一つ、歳三が妙な「善行」を函館に残したことである。五稜郭末期のころ、大鳥の提案で函館町民から戦費を献金させようとした。
「焼け石に水」
と、歳三は反対した。
「五稜郭が亡ほろびてもこの町は残る。一銭でも借りあげれば、暴虐ぼうぎゃくの府だったという印象は後世まで消えまい」
そのひとことで、沙汰さたやみになった。
墓碑の戒名は広長院釈義操、俗名は土方歳三義直・、で一字まちがっている。しかし函館町民が建てたものは俗名は正しく義豊・となっており、戒名は歳進院殿誠山義豊大居士。
会津にも藩士の中で歳三を供養くようした者があるらしく、有統院殿鉄心日現居士、という戒名が遺のっている。
土方家では、明治二年七月、歳三の小姓市村鉄之助の来訪でその戦死を知った。翌三年、馬丁沢忠助が訪ねて来て戒名を知り、「歳進院殿・・・」のほうを位牌いはいにして供養した。
市村鉄之助の来訪は劇的だったらしい。
雨中、乞食こじきの風体ふうていで武州日野宿がずれ石田村の土方家の門前に立った。当時、函館の賊軍の詮議せんぎがやかましいという風評があったため、こういう姿で忍んで来たのであろう。
「お仏壇を拝ませていただきたい」
といい、通してやると、
「隊長。・・・」
と呼びかけたきり、一時間ほど突っ伏して泣いていたという。
土方家と佐藤家では、鉄之助を三年ほどかくまってやり、世間のうわさのほとぼりも醒さめた頃、近所の安西吉左衛門という者に付き添わせて故郷の大垣へ送ってやった。のち家郷を出、西南戦争で戦死した、ということは既述した。歳三の狂気が、この若者に乗り移って、ついに戊辰時代の物狂いがおさまらなかったのかも知れない。
お雪。
横浜で死んだ。
それ以外はわからない。明治十五年の青葉のころ、函館の称名寺に歳三の供養料をおさめて立ち去った小柄こがらな婦人がある。寺僧が故人との関係をたずねると、婦人は滲しみとおるような微笑をうかべた。
が、何も言わなかった。
お雪であろう。
この年の初夏は函館に日照雨そばえが降ることが多かった。その日も、あるいはこの寺の石畳の上にあかるい雨が降っていたように思われる。
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2024/07/07
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= = 完 = = |
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