この年配の客が東方弁を話していてということの印象は、ほかの客たちも同じだった。手洗いに通るたびに、ひそひそ話の片言が耳に触れる。
しかし、むろん、だれもこの二人に興味を持っていなかった。それに、自分たちの話題の方がはるかに楽しい
雰囲気
を作っていた。いわば、片隅の二人の男は、店の者からも、先客からも、まったく無視されていた。
「おう、もうすぐ十二時か」
客の一人が腕時計を見てつぶやいた。
「そろそろ、腰を上げよう。まもなく終電だ」
「あら大変」
と、女事務員が言った。
「終電になったら困るわ。駅から家まで十分もかかるんですもの」
彼女はだるそうな声で言った。
「いいよ、もう少し落ちつきな。遅くなったら、おれが送ってやってもいいぜ」
「あんたなんかに送ってもらったら、迷惑よ」
女が酔った声で言い返した。
「兄さんが駅まで来てるわよ」
「へーんだ。どんな兄さんかわかるもんか」
「失礼ね。あんたと違うわよ」
「はは、やられてるじゃないか。まあ、みっちゃんににはおとなしくした方がいいよ。なにしろ、月末にはいつもお世話になるからね」
「あら、いやな言い方しないでよ」
その話の途中だった。
「おい、勘定」
ボックスの二人が立ちあがるのが見えた。
トリスバーを出た二人の男は、それからどこへ行ったか ──
それには目撃者がないではなかった。
おりから通行中の流しギター
弾
ひ
き二人が、彼らと行きあっている。ちょうど、バーから五六メートルのあたりですれ違ったのである。
流しのギター弾きは、この辺の飲み屋やバーを
顧客
とくい
としていた。
なぜ彼が二人の客の行方を注目したかというと、そのトリスバーで
稼
かせ
ぐつもりだったのに、客が出て行ったので、思わず舌打ちしたのであった。
「なに、あんな客は歌の注文なんかしやしないよ」
ギター弾きの兄貴分が言った。
「あんまりヒンがよくないからな」
ヒンとは服装の隠語だった。彼らの商売では、まず、ヒンの良し
悪
あ
しが関心事となる。
「そうかい」
弟分の方は、暗い所で会ったため、気づかなかったので、その言葉で思わず後ろを振り向いた。
その時は、客の姿はかなり離れた所を歩いていた。
この細い道は、十メートルほど先で二つに分かれている。右に行けば大通りとなり、
賑
にぎ
やかな商店街に出るのだが、左に行くと蒲田駅の構内の
柵
さく
沿いとなる。
こっちの道はひどく寂しくて人通りがない。有刺鉄線の柵がしてあるが、まだ、
空地
あきち
に草が伸びていたり、人の居ない小屋があったりして、深夜などは女ひとりでは歩けないくらいだった。外灯ももまばらで、何が出てくるかわからないような場所だ。その先に行くと、電車の操車場があった。
二人の客は、その左手の道を曲ったのである。
かなり遠くなったので、ギター弾きの、いわゆるヒンは、さだかには判別は出来なかったが、そのような不景気な道を歩いて行くくらいだから、たいした客でないと思った。
「その二人の様子は親密そうだったかね。それとも、
喧嘩
けんか
でもしているようなふうだったかね?」
事件が起きてから、捜査本部の係官は、ギター弾き二人に聞いている。
「いいえ、別に、喧嘩しているようでもありませんでした。何かお互いに話し合っているようでしたが、その話の内容はわかりません。まあ、親しかった方だと思います。
「その二人の言葉には、何か、特徴がなかったかね?」
「そうですな、東北弁の訛だったように思います」
「それは、どっちの方だったかね。年寄りの方かね、若い方だったかね」
捜査員は聞いた。
「さあ、暗くて顔がはっきりわかりませんが、左の方にいた人だと思います。その人は、背が低かったようです」
背の低いのは半白頭の方だった。
それが五月十一日の晩だった。
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