今西は、すぐ着替える気持にもならず、そこに腹這って、新聞などひろげていたが、いつの間にか目を閉じた。耳もとでは台所の方の音が、微かに聞こえてはいたが、つい、うとうとした。
「さあ、できましたよ」
妻がゆり起こした。
見ると、お膳ぜんが出ていて、燗かんびんが乗っていた。眠った間に妻が毛布を掛けてくれている。それをのけて、今西は起きあがった。
「お疲れになったのね」
妻は銚子ちょうしを取って言った。
「くたびれた」
「よくやすんでいらしたけど、せっかくですから」
妻は盃さかずきに銚子を傾けた。今西は指で目をこすった。
「うまい」
今西は盃を飲み干して、瓶詰めの塩辛しおからを突っついた。
「どうだ、おまえもひとつ」
その盃を妻に渡した。
妻はかたちだけ飲んで、すぐに返した。
「まだ片づかないんですか?」
と聞いたのは事件の事である。蒲田の事件が起こって以来、今西が、捜査本部詰めとなり、連日のように遅く帰って来るので、その疲労を気づかう顔だった。
「まだまだ」
今西は次の酒を口に含んで顔を横に振った。
「新聞には、いろいろ出てますわ。長引くんでしょうね」
事件の解決よりも夫の疲れの堆積たいせきを気づかっていた。
芳子が今西を見上げて言った。
「新聞にはカメダという人を探していると、書いてありますね。殺された人と犯人とが、そのメダカという人を知っているように、記事にはあるんですが、まだわかりませんか?」
妻は、、めったに事件の事を今西に聞かなかった。今西も事件の事はなるべく家に帰って言わないことにしている。
だが、いま芳子がそう言うのは、彼女が新聞記事などから、よほど興味をそそられているらしかった。
「うむ」
今西は口の中で生返事をした。
「これだけ、新聞で騒いでいるのに、どうして分からないのでしょうね?」
今西は、それにも返事をしなかった。どのような事件でも、家族とはその話をしたくなかった。
いつか、ある事件が起こって、妻がしつこく聞いたことがあった。今西は、そのとき、捜査事件のことには口を出すな、と叱しかったものだ。
それ以来、芳子は控え目にしているが、今度の事件ばかりは、つい、そのことを忘れたようだ。
それでも、夫があまりいい返事をしないので、
「カメダという名前は多いんですか?」
と、彼女は遠慮そうに聞いた。
「さあ、わりと少ない方じゃないかな」
今西は自分の疲れをねぎらって、銚子をつけてくれた妻の心づくしを考えて、さすがに叱ることも出来なかった。
それで、やはり、煮えきらぬ答え方をした。
「わたし、今日、そこの魚屋さんに用事があって寄ったので、電話帳を借りて見たんです。すると、カメダという名前は、東京の電話帳には百二軒あるんですよ」
彼女は話した。
「百二軒というと、あまり多い方ではありませんが、そう少ない方でもありませんわね」
「そうかな」
今西は、二本目の銚子に手をつけながら、口の中で言った。
それは、仕事の内容を話したくない気持もあったが、もう、カメダの名前はたくさんだった。
カメダを探すために、本部がどれだけ苦労しているかわからないのだ。また、彼も被害者の写真を持ち歩いて、池上線沿線の安宿や安アパートを足を引きずって回っているのだ。
今夜は、ただ、何も事件のことを考えないで眠りたかった。
「少し酔ったかな」
実際、体の中が熱くなっていた・。
「お疲れになっていたのね。だから、まわりが早いんでしょう」
「これ一本で飯にしようか」
「なにもありませんわ。今夜、お帰りになるかどうか、わからなかったので」
「いいよ」
妻はまた、台所に行った。
頭が少し軽くなったようだ。
「カメダ、か」
今西は、自分で気づかずに思わず口に出た。
やはり、気にかかっているのだ。酔ったとは思わないが、二三度、つづけて呟つぶやいた。
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