しばらく歩くと、大きな川ぶちに出た。
川上の方は重なり合った山の間にはいっている。川土堤には草が伸びていた。
「なるほど、ここでその男は寝ていたとおうわけだね」
今西は景色を見て言った。
向い側の川土堤を農婦が一人、鍬をかついで歩いていた。こういう用件でもなかったら、のんびりした旅だった。
「今西さん」
吉村が横から言った。
「どうでしょう、感じとしては、やはりその男が、例の蒲田の飲み屋で被害者といっしょにいた男でしょうか?」
「さあ、なんとも判断がつかないね。しかし、確かに話の具合は妙だな」
「だが、とりとめのないことですね」
吉村は、今西の横で、少し情けない顔をして立っていた。
「今西さん、あの宿帳に書いているのは、むろん、偽名でしょうね」
吉村は聞いた。
「もちろんだ、あれは大ウソのコンコンチキだよ」
今西が、あんまり、はっきり言ったものだから、吉村は吊り込まれた。
「どうして、それがわかります?」
「君、あの宿帳の筆跡を見ただろう?」
「はあ、見ました。ひどく下手な字でした」
「下手なのも道理さ、あれは、わざと左手で書いたんだ、待て待て」
今西は、ポケットを探って手帳の間にていねいに畳んだ宿帳の一枚を出して見せた。
「よく見てごらん、これには文字の勢いというものがまるでないだろう。それに、こんなギスギスした字というのはない。あの宿屋でも、女中が言ったのを覚えているね。宿帳は女中の眼の前で客が書いたのではなく、女中が宿帳を置いて、いったんひきさがり、そのあと部屋に行ったところが、ちゃんと記入できていたと言っていた。だから、この客は女中の留守の間に左手で書いたんだ」
吉村は、覗きこんでいたが、
「そういえば妙な字ですね」
「ただ、下手というだけでなく、こんな妙な字になるのは左書きだからさ。右利みぎききの人間が左手で書いたんだから、もちろん、筆跡をわからないようにするためだ。だからこの住所も名前もデタラメといっていい」
「なるほど、そう聞けばその通りですが」
吉村は、説明を聞いたが、わりとのんびりした顔つきをしていた。
「しかし、その男があの宿屋に泊まったのはいいが、十時ごろから午前一時ごろまで、いったい、どこに行っていたのでしょう。その昼ごろの行動を見ると、別に用もなさsぅにみえますがね」
「そうだ、ぼくもそれを考えていたところだ」
今西は両手をズボンのポケットに入れて、草の中に立っていた。目の前の川には、小さなせせらぎが泡立あわだち、向うの山には陽が当たって影をつくってる。
「何だか妙な出張ですね」
と、吉村は言った。
「張りあいのないみたいな結果ですね」
確かにその通りだった。遠路、ここまで来て妙な男の行動を聞いたというにすぎない。この左手で書かれた筆跡が、あとで、どう生きてくるかわからないにせよ、しいていえば、そのような小さなことを東北のこの田舎町に確かめに来ただけだった。
「今西さん。これからどうしますか?」
吉村が艶つやのない声できいた。
そうだな、これという当てもないから、ひとまず引き返そうか?」
「その男の足取りを探さなくていいですか?」
「探しても無駄だろう。おそらく、その日一日しか、この亀田にはいなかったのじゃないかな」
「では、いったい、その男は何の目的でここに来たのでしょうか?」
「さあ、よくわからない。流れ者の労働者にしては、別に仕事を求めたような形跡もない。だが、君のいう通り、一つ、念のために近くの町を洗ってみるか。せっかく、ここまで来たんだ。まあ、何とか元気を出せよ」
今西は吉村の浮かぬ顔を見て言った。 |