~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
未 解 決 (十三)
二人は笑いあった。片沢がかたわらの俳優を見ると、これは何か考え事をしていたのか、眉を寄せて沈んだ表情である。しかし、片沢の視線に気づくと、彼はお義理のように笑顔をつくってみせた。何か屈託があるらしい。
武辺が俳優の方を見て、
「君なんかも気をつけた方がいいよ。うかつに女の子とタクシーに乗って事故にでもあうと、どこから苦情が出ないともかぎらない。君、この人はなかなかモテるんだよ」
「つまらんことを言わないで下さい」
宮田邦郎は苦笑した。.
そういえば、色こそ黒いが、立体的な整った顔をしている。それに俳優らしく垢ぬけた感じである。
「いや、たとえ和賀がほかの女と一緒に乗っていたことがバレても、田所佐知子との婚約は解消しないよ。かえって、結婚が早くなるかもしれない」
片沢が話を戻した。
「へえ、どうしてだい?」
劇作家が反問した。
「なに、佐知子は和賀にノボせているからな。あれは彼女の方がずっと熱をあげているよ」
「へえ、そうかい?」
「女というものはね、好きな男にそういうライバルが出て来ると、よけいに懸命になるもんだ。相手の男がほかの女と交渉があったことがバレて怒ったり、妬いたりするのは共通だが、問題はそのあとだ。それで男を不潔だとか何とか言って別れてしまう女は、熱のない方だ。ノボせている方は、かえって血道を上げるよ」
「いや、何だか経験のありそうな話をしているぜ」
片沢の説明を聞いて武辺が笑い出した。
「そうかい、田所佐知子は和賀にそんななのかい? 和賀の奴も仕合せだな、なにしろ、彼女の後ろに田所重喜がいるからね。彼の勢力と財力をバックにすれば、思い通りの振舞が出来るよ」
「しかし、和賀は、全然、佐知子の親父のことを認めていないんだ。これは、佐知子自身の話だが、和賀が親父を軽蔑していると言って喜んでいると」
「田所佐知子も甘いね。なに、そいつは口先だけで言ってるんだ。和賀は、やはり、田所重喜を頼りにしているんだよ」
ベレー帽の男は、おとなしく傍聴していた。
雑談はそれからしばらく続いた。
「もう、いいだろう?」
武辺豊一郎が腕時計を見た。
「そうだね、あれから、だいぶん、時間が経っているから、ぼつぼつ覗いてもかまわないだろう」
二人はにやりと笑いあった。
「じゃ、失敬」
「失敬」
ベレー帽の俳優ものそりと立ちあがった。
「どうも失礼しました」
と、画家に言った。
「失敬しました」
片沢睦郎も会釈した。
三人は陽の明るい道路に出た。そこで片沢は駐車場まで戻り、置いてある自家用車の方へ歩いた。
劇作家と若い俳優とは自家用車を持たない。二人は歩いて公園のようなK病院の庭を通って」、病棟の方に行った。
廊下を歩いて特別室の前に立った。部屋番号は頭の上にある。それを確かめて、劇作家の武辺がドアをノックした。
応えはなかった。
武辺は、ふたたび叩いた。
それにも返事はなかった。武辺と宮田邦郎は顔を見合わせた。
そのとたん、ドアが内側から開いた。
「どうぞ」
顔を覗かせたのは、田代佐知子だった。訪問者が武辺と見て、
「あら、いらっしゃい」
と笑った。その顔があかく上気していた。
佐知子の唇から、ルージュが少しはげていた。
2025/03/30
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