~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
紙 吹 雪 の 女 (五)
近くの銭湯に行って帰ると、夕食の支度がしてあった。まだ外が明るいので、電灯の光が冴えない。
留守の間に妹が来ていた。
妹は川口に住んでいる。夫は鋳物工場の工員だったが、小金を貯めて、小さなアパートを持っていた。
「兄さん、今晩は」
別間で、外出着を女房のふだん着を借りて着替えたらしい妹が、顔を出した。
「来ていたのか?」
「ええ、たった今」
今西は渋い顔っをした。この妹は、しじゅう夫婦喧嘩のシリを持ち込んで来る。
兄さん、暑いわね」
妹は、兄の今西栄太郎の横に来て、ぱたぱたと団扇を使った。
「うん」
今西はちらりと妹の顔をうかがった。夫婦喧嘩の果てに駆け込んで来る時と、そうでないときとは顔つきでわかる。今西は安心した。
「何だい、また、やりあって来たのか?」
夫婦喧嘩でないときは、今西はわざとそんな言い方をする。これが、はっきりそうでないとなると、ふれないですまそうとしる。
「いいえ、今日はそうじゃありませんよ」
妹は多少照れくさそうな顔をした。
「今日は主人が夜勤だし、朝から引っ越しの手伝いがあってくたびれたから、骨休めに来ましたのよ」
「何だい、引っ越しの手伝いって?」
「家のアパートが一部屋ふさがったんです」
「陽当たりの悪いと言っていたあの部屋かい?」
その部屋がふさがらないと言って、妹は前からこぼしていた。それに借り手がついたというのだ。そのせいか、今日は機嫌がよかった。
「それはよかったな。それでおまえが手伝いのサービスをしたのか?」
「そういうわけじゃないんですけれど、今度の人は、女ひとりなんです」
「へえ、ひとり者か?」
「そう、二十四五ぐらいです。別に手伝い人も来ていないようでしたから、気の毒なので加勢したんです」
「そうかい。女ひとりというと、まさか二号さんじゃないだろうな?」
「違うわ。もっとも、水商売の人には違いないけれど」
「へえ、料理屋の女中か?」
「ううん、銀座のバーの女給さんだそうよ」
「ふうん」
今西はそれきり黙った。日照りつづきで暑さがひどい。ことに、この家のぐるりが他所の家で壁のようになっているので、風が少しも入らなかった。
「川口くんだりのアパートに越すくらいだったら、あまり、景気のいいバーに働いている女給さんじゃないな」
「そうでもないでしょう」
妹は兄にケチをつけられてと思ったのか、少しむっとして反発した。
「そりゃあ、銀座に便利のいいところといったら、赤坂や新宿あたりでしょうけれど、お客がとてもうるさいんですって。店が看板になってから、何だかんだと言って送りたがるんですって」
「へえ、では、それの懲りて川口に移ったのか。今までどこにいたのかい?」
「何でも麻布の方ですって」
「美人かい?」
今西は聞いた
「ええ、とってもきれいな女よ。どう兄さん、一度見に来ない?」
そこに今西の妻が切った西瓜を鉢に入れて来たので、妹はペロリと舌を出した。
「さあさあ、冷たいうちにあがってくださいよ。太郎ちゃんもこっちにいらっしゃいよ」
と、彼女は庭で遊んでいる子供を呼んで鉢を置くと、
「お雪さんのアパートも、今度みんなふさがったんですって」
と、今西に話しかけた。
「ああ、聞いたよ」
2025/04/01
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