~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
紙 吹 雪 の 女 (七)
「君の前の部屋の学生が、君にぼくのことを聞いたというじゃないか?」
「あなただっていうことを、先方では知りませんわ。ただわたしの部屋に先夜見えたお客さまは、どういう人かって聞いただけなんです。ちょっとした興味ですわ。別に深い意味はないと思うわ」
「それみろ」
関川は言った。
「そんなことを君に聞く以上は、ぼくが廊下で出会ったあの友だちの学生に何か言われた証拠だ。振り返ってぼくを見たときのあの学生の目つきが、どうも、ぼくの顔を知っているような具合だった」
「前の部屋の学生さんがわたしに聞いた時は、そんな感じではなかったわ」
「ぼくは、ときどき、新聞に評論を書くので、顔写真が出る」
関川は暗い川の方を見て言った。
「相手は学生だ。ぼくの書いたものを読んでいるに違いない。写真の顔も、彼の記憶にぼんやりとあったのだ」
暗い中に黒い水面がかすかに光っていた。遠いところで電車が鉄橋を渡っていた。光の帯が水面に映りながら尾を曳いてゆく。
「かなしいわ」
恵美子は言った。
「何がだい」?」
関川は煙草の小さい火を息づかせていた。
「だって、あなたはいろんなことに気をおつかいになるんだもの。わたしっていう女が、だんだんあなたの邪魔になりそうな気がするの」
対岸の闇の中に口笛がかすかに聞こえた。若い人が歩いているらしい。
「君は、ぼくの気持がまだわからないにか?」
関川は恵美子の肩に手を置いて言った。
「ぼくは今大事な時期だ。ここで君のことが表面に出てみろ、ぼくはどんなふうに悪口を言われるかわからない。ぼくは、仕事でいろいろな人を批評しているので、それだけに敵が多い。君のことがわかってみろ、なんだ、あいつは、ということになるだろう」
「わたしがバーの女給だからいけないのね。和賀さんの婚約者みたいにちゃんとした家のお嬢さんだったら、あなたもそう人に気兼ねすることはないんでしょう?」
「和賀とぼくは違う」
関川は、当然、腹を立てたように言った。
「和賀は出世主義者だ。ぼくは奴のように、口先で新しことを言いながら、実は、最も古い根性を持っている男とは違う。君がバーで働いている女だろうとなんだえろうと、ぼくは少しもかまわないことだ」
「だったら・・・」
と、女は言った。
「だったら、どうしてそんなに、人の目ばかりを気になさるんですの? わたし、どんなところでも、もっと堂々とあなたとご一緒に歩きたいわ」
「わからない奴だな」
と、関川は軽く舌打ちした。
「君は、ぼくの立場を知っているだろう?」
「そりゃあ、知ってますわ。あなたっていう人が普通の職業とちがうってことも。本当に尊敬しているんです。それだから、わたし、あなたに愛されているのを幸福に思ってるんです。できたら、友だちに自慢してやりたくらいなんです。いいえ、それは誰にも決して話しませんわ。ですけれど、気持はそうなんです。それはわかってますけれど、ときどき、こんなことが悲しきなります。今度のことだって・・・・」
と、女はつづけた。
「あのアパートの学生さんに顔を知られたからすぐに引越せとおっしゃるんですもの。なんだか、わたし、いつまでも、あなたの陰の女みたいになってるような気がするわ」
「恵美子」
と、関川は呼んだ。
「その気持は、ぼくにはよくわか。だが、何度も言う通り、ぼくの立場になってほしい。ある時期まで、ぼくは君に犠牲を強いなければならない。ぼくは、今どうにか世に出かかっている大事な時なんだ。ここでつまらない噂を立てられて、出鼻をくじかれてみろ。今までの努力も、これからの希望もめちゃくちゃになる。ぼくは、ぼくの仲間に負けたくないからね。君はぼくの用心深さを軽蔑しているかもしれないけれど、ぼくのいる世界はそういうところなんだ。あんがい、そういうスキャンダルみたいなものが、つまずきになるような世界なんだ。辛抱してもらいたいね」
関川は女の顔と肩とを、にわかに引き寄せた
2025/04/03
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