今西栄太郎は、妹を駅に送って、帰りかけた。
すると、ちょうど、駅のすぐ傍に夜店が並んでいた。そこは、駅から斜面の道路に沿って上がった所で、毎朝日雇い人夫が屯する所だった。近くに職安がある。夜店はそこに並んでいた。時間が遅いので、半分は片づけかけていた。そのなかには植木屋が居た。
今西は、それが目につくと、足を止めた。
「もう、およしなさいよ。庭に並べる所がないわ」
妻が横から止めたが、黙って通れないのが、彼の性分だ。
「見るだけだ。買いはしない」
今西は、妻をなだめて、植木の鉢を並べている前に立った。
客はほとんど散っていた。商人は、もうしまいがけだから、うんと安くしておきます、と今西を誘った。
今西は、植木鉢をひととおり見たが、幸い気に入ったものはなかった。足下には、木の葉や新聞紙などが散っていた。
今西は、そこからまた歩道に降りた。
腹が少し減った。すし屋があいていたので、
「すしでもつまもうか?」
と、妻に言った。
妻は、あいた入口の隙間からちらりと店の奥をのぞいていたが、
「よしましょうよ」
と、浮かない声で答えた。
「ばかばかしいですわ。そんなことにお金を使うより、明日、何かご馳走しときましょう」
腹が空いているのは現在である。明日の馳走では間に合わない。しかし、今西は、妻の気持もわからないではなかったので、口をつぐんだ。何となく不服な顔になって路地を戻った。マグロの感触が思い出されたが、彼は我慢した。
路地は、店がほとんど戸をしめてしまったので、外灯だけの光りになっていた。
その光の中に、一人の男が口笛を吹きながら、ぶらぶら歩いていた。何かの歌らしく、口笛は旋律をもっていた。
ちょうど、最近できた、例のアパートの前あたりだった。
外灯の光で透かして見ると、ベレー帽かぶった男だった。夏だというのに、おしゃれなのか、真っ黒いシャツを着ている。
その男が、先ほどから、口笛を吹きながら、その辺をぶらぶらしていることがわかった。今西たちが近づくので、それに気づいたのか、口笛はやみ、その男は、顔を隠すようにして、暗い方へ何気ない格好で歩いた。
今西は、何となく、その男の方へ目を向けて通り過ぎた。
べつに怪しい男ではないが、職業的な習慣というか、自然と注意深くなるのであ。
「お腹が空いているんでしたら、家に帰ったらお茶漬けでもしましょうか?」
すしを倹約した女房が横で言った。
「うん」
今西は、何となく不満で、口数をきかなかった。
星の少ない晩である。そのまま、路地の前を通りすぎた。
男は口笛を吹きつづけていたが、夫婦者が通りかかったのでやめた。
目の前にアパートの建物があった。男の目は、先ほどから灯のついた窓にそそがれていたが、それも今は消えてしまった。
「お腹が空いてるんでしたら、家に帰ったらお茶漬けでもしましょうか?」
女房らしい声が言っていた。
その夫婦者が通り過ぎると、ベレー帽の男はいま灯の消えたばかりの窓に、また口笛を鳴らした。
暗い窓にはカーテンがひかれている。アパートの横は狭い路地で、一方は小さな家ばかりが並んでいた。
屋根の向うに新宿あたりの明るい灯が、夜明け前のように白く輝いていた。
どこかで赤ン坊の泣声がしていた。男は、わざと靴音を立てて何度かその辺りを往復した。
アパートの窓はあかなかった。
さっきの夫婦者が通り過ぎたあと、人通りが絶えていた。狭い路地に、この男だけがぶらぶらと歩いていた。
それからもニ十分ぐらい、そうしていた。男は何度もアパートの窓を見上げたが、反応はなかった。
彼は諦めたらしく、ようやく、その路地から表通りに出た。
それまでにも、未練気に何度かアパートを振り返った。
彼は元気のない足取りで、駅の方に向かった。ときどき左右を眺めたのは、タクシーの空車を待つためだったが、あいにく、それは見当らなかった。何台かのタィシーを見送った。
彼の目は、通りの向い側のすし屋に向かった。半分開いた入口には客の腰掛け姿が二三人見えた。彼は歩道を渡って、店の中に入った。
若い男女の客が三人ほどすしをつまんでいたが、その中の一人が入って来た彼の顔を見て、怪訝そうな目つきをした。
彼はすしを注文した。
その横顔を、先客の女が、連れにささやいて、一緒に眺めた。
ベレー帽の男は注文したすしを次々に食べていた。痩せて彫の深い顔である。
すると、先客の女が、自分のポケットを探って手帳を取り出した。それから、にこにこと笑いながらベレー帽の男の横に近づいた。
「あの・・・」
と、遠慮深そうに言いかけた。
「もしや、前衛劇団の宮田邦郎さんではありませんか?」
ベレー帽の男は、食べていたすしをごくりと奥に呑み込んだ。
彼は一瞬に目を迷わせたが、その女の子の顔を見て、仕方なさそうにうなずいた。
「はあ、そうですが・・・」
「やっぱり、そうだったわ」
彼女は連れの男二人を振り返って笑顔をみせた。
「すみません、これにサインしてくださいな」
よれよれになった手帳を差し出した。男は、しぶしぶ、万年筆を抜いて、自分の名前を慣れた手つきで署名した。
この男の顔だと、前に和賀英良の負傷を見舞いに劇作家の武辺豊一郎と一緒だった新劇の俳優であった。
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