~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
血 痕 (一)
今西栄太郎は空しく東京に帰った。
空しく、という感じが、これほど適切だったことはない。期待が大きかっただけに、失望も深かった。
被害者三木謙一の過去に殺人事件の原因があると確信をもって出雲の奥地まで行ったのだが、何一つ手がかりは得られなかった。聞いたのは、三木謙一が」立派な人物だったということだけでsる。
普通ならこの話は気持のいいはずである。だが、それが不服なのは、刑事という職業が因果名のかも知れない。
警視庁に帰ると、今西は、係長にも課長にも出張の報告をした。元気がなかった。かえって上司に慰めてもらった。
「カメダ」と「東北弁」に、自分がまりに固執していたことを反省してみた。あまりに、この二つに引きずりまわされてきたような気がする。捜査はつねに冷静で客観的でなければならない。
今度の事件ではいつの間にか、先入観に方向を見失ったような気する。
憂鬱な毎日だった。新しい事件は、あとからあとからと絶えない。今西は気分転換のためにも、新しい捜査に心を入れた。が、一度出来た空虚感は容易に埋まらなかった。
着眼はよかったのだ。しかし、実際は違っていた。事実は今西が考えたことを、何一つ、証明してくれなかった。
今西は帰ってから、吉村にも、電話でそのことを言った。吉村は気の毒がっていた。
「遠いところをご苦労さまでした。しかし、今西さんの考え方は間違っていないと思いますよ。そのうち、きっと何か出ます」
彼はそう慰めてくれた。
きっと何かが出る ── その時は、その言葉を若い同僚の慰めとしか受け取れなかった。
限りのある捜査費から、東北と出雲と、二度も出張費を使ったことを、彼は心苦しく思った。
浮かない毎日が続いた。事件発生以来、いつかもう三ヶ月を過ぎていた。朝夕はいくらか秋の気配を感じさせるが、日中はきびしい暑さがつづいている。
そんなある日、今西は本庁からの帰りに、週刊誌を買い、都電の中で開いた。
その中に、随筆の連載ものがあり、今西は読むともなくそれに目を落とした。次のような文章である。
 
「旅をすると、いろいろ変わった場面にぶつかる。この五月のことだった。所要があって信州に行ったがその帰りのことである。夜汽車であった。確か甲府あたりだったと思うが、私の向い側に若い女の人が乗り込んで来た。なかなかの美人である。それだけなら、ただの美人という印象にとどまったのだが、その若い女性が列車の窓をあけて何やら撒きはじめた。
私は、何だろうと思いって見ると、それは細かな紙片を窓の外に撒いているのだった。しかも、それは一回でけではなく、汽車が大月駅を過ぎても、何回となく撒かれるのだ。その娘さんは、ハンドバッグの中から紙片を掴み出しては、少しずつ外に捨てる。すると、紙片は風に散って紙吹雪となるのだった。
私は、思わず微笑んだ。今どきドライと思われがちな若い女性が、こんな子供っぽい、しかもロマンティックなことをするとは思わなかった。私は芥川龍之介の『蜜柑』という短編を思い出した」
 
今西栄太郎は、家に帰った。
近ごろは大きな事件がなく、捜査本部を作るようなこともなかった。これは、市民生活の平和にためには喜ぶべきことだが、今西としては何となく物足りない。やはり刑事という職業は因果なものだと思った。
蹴ると、すぐに太郎を連れて、銭湯に行った。
まだ時間が早いので、それほど混んでいなかった。太郎は近所の友だちと一緒になったので、喜んで、遊んでいる。
小さい子供が、蛇口に桶を据えて、悪戯をしていた。湯につかりながら今西は、今日、帰りに読んだ随筆の文章をふと思い出した。
あれはちょっとおもしろかった。子供っぽいことをする娘もいるものか。
その随筆の書き方からすると、その娘は甲府から東京にひとり旅をしていて、自分の心細さを、そんなことでまぎらせていたのかも知れない。
今西は、随筆の著者が引用した芥川龍之介の作品は読んでいなかったが、そういう娘心が、なんだかわかるような気がした。
夜汽車の暗い窓から紙を散らしていく女。闇の中に紙片がばらばらになって舞い上がり、線路にこぼてていくさまが目に浮んだ。
今西は、ざぶりと顔を洗った。それから流し場に出て体をこすった。
そてから太郎をつかまえて洗ってやり、そのあと、すぐに湯槽にはいる気もせず、そのまますわっていた。いい気持ちである。
紙吹雪を撒く女のことが、まだ頭の中に残っていた。
十分ぐらいそうしていた。今西は、もう一度湯槽にはいった。肩を湯につけた時でさる。
今西の頭に何かがひらめいた。
彼は、はっとした。
思わず目を一点に据えて、湯の中で動かなかった。
彼は表情が変わっていた。それまでのんびりしていた顔つきが緊張した。
体を拭くのも無意識だった。まだ友だちとふざけていたがる子供を急きたてて家に帰った。
「おい」
と、妻に言った。
「今日、おれが買って来た週刊誌は、どこにやった?」
台所の方で、妻の声が答えた。
「あら、わたし、いま読んでるわよ」
今西は、煮物をしながら、できるのを待っている妻の手から、週刊誌を奪い取った。
2025/04/16
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