~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
血 痕 (十一)
今西は外に出た。
あれほど、探している女が、つい目と鼻の先にいたのだ。灯台下暗し、とはこのこてある。まさか「紙吹雪の女」が、前に何度か見かけた近所のアパートにいる新劇の劇団事務員とは思わなかった。まるで、夢のような話だった。
しかも、その女が自殺した。今西の驚愕は、二重だった。
今西の目には、彼女の部屋のすぐ下のあたいをうろついていた、背の高い、ベレー帽の男が焼きついている。
あの時は、何気なく見過ごしてきたが、今となってはもう少し彼の正体を見きわめておくのだった、と後悔した。しかし、もう追っつかない。
アパートの管理人のおばさんに聞くと、彼女はいつも一人で、だれも訪問する者がなかったというから、もとき、ベレー帽の男は、彼女を口笛で呼び出していたのだろう。
今西は、この時、ふと、前に秋田県の亀田に行って知った、妙な挙動の男のことが心に浮んだ。しかし、それはただ浮んだというだけで、ベレー帽の男と亀田の男とが同一人fだ、というところまでの判断はない。
あれは川口にいる妹を駅に送っての帰りだから、十一時を過ぎていた。
今西は、ベレー帽の男の目撃者を近所から聞き出すつもりだったが、遅い時間なので、この辺は早く寝てしまい、目撃者の発見は出来ないことをさとった。
彼は考えながら歩いた。
なんとかして、その男を見つけることが出来ないだろうか。
自殺した女が劇団の事務員だから、あるいは、その男は劇団関係の人間、つまり俳優ではないか、という考えが起きた。俳優はよくベレー帽をかぶって外を歩く。
じとつ、これから前衛劇団を訪ねて、自殺した成瀬リエ子の生活や人間関係を聞き出し、それとなくベレー帽の男を探ってみようと、思った。
今西は、路地を出て、少し広い通りに出た。それをさらに左に行くと都電の通りにでるのだが、彼の目は、路地を出た所で、正面のすし屋に向かった。
すし屋では、今、店開きの準備にかかっている。若い者が暖簾を吊っていた。
そうだ、あの晩は十一時を過ぎていたから、もしかすると、ベレー帽の男は、このすし屋に寄って、すしでもつまむようなことはなかったろうか。
この考えが起きたので、今西は、すし屋の方へ歩いた。
「お早う」
暖簾を掛けていた若い者が振り返って、今西の顔に頭を下げた。この店は今西を知っているし、ときどき、出前も取っている。
「まだ準備ができていませんが」
と、若者は断わった。
「いやいや、すしを食べに寄ったんじゃないよ」
今西は微笑した。
「ちょっと聞きたいことがあってね。旦那はいるかい?」
「へえ、奥で魚を洗っていますよ」
今西は、ごめん、と言って店の中へ入った。
すし屋の亭主は、今西が入ったのを見て刺身包丁をおいた。
「いらっしゃい」
「お早う」
今西は、まだ掃除最中の椅子に掛けた。
「いそがしいところをすまないがね。ちょっと聞きたいことがあって来たよ」
「へえ、なんでしょう」
すし屋の亭主は、はちお巻をとった。
「たぶん、日が経っているので、あんた憶えているかどうか知らないが、先月の末ごろ、夜だが、ここに背の高いベレー帽をかぶった男が、すしをつまみに来なかったかい?」
「ベレー帽ね」
すし屋の親父は考え込んだ。
「背の高い男だ」
「人相はどうなんでしょ?」
「人相はちょっとわからないが、俳優じゃないかと思うんだがね」
「俳優ですって?」
「いや、映画の俳優じゃなくて新劇の方だ。芝居だよ」
「ああ」
その言葉ですし屋の亭主はわかったというふうに、景気よくうなずいた。
「来ました。来ました。確かにベレー帽をかぶった俳優さんが来ましたよ」
「え、来た」
今西は思わず覗きこんだ。
「ええ、しかし旦那。そりゃ、かなり前のことですよ。そう、たしか七月末ごろでしたね」
「うむ、で、すしをつまんだのかい?」
「へえ、十一時ごろでしたね。一人でぶらっとやって来ましてね。ちょうど、ほかに若いお客さんが三人ばかりいました。するってえと、その中の若い女が、つかつかとそのベレー帽のところに行って、いきなりサイン帳を出したんです・・・」
「その俳優の名前は、何と言うんだね?」
「宮田邦郎です。前衛劇団の二枚目として売り出してますよ」
「二枚目じゃありませんよ」
と、横から若い者が口を入れた。
「あれは性格俳優ですからね、何でも役を消化します」
「宮田邦郎だな」
刑事は手帳につけた。
「よく、ここに来るかい?」
「いいえ、あの時来たきりです」
2025/04/21
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