~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
変 事 (七)
「はあ、そうですね。八時から銀座でだれかに会わなければんらない、と言っていました」
「八時に銀座で?」
今西は思わず口を入れた。
「ほんとうにそう言っていましたか?」
「はあ、それは確かにぼくが聞きました」
山形と言う俳優は、今西の方に目を向けて答えた。
「実は、ぼくが誘ったんですが、彼はそう言って断わったんです」
では、やはり宮田邦郎は今西との約束を守るつもりだったのだ。
「その銀座をに出る前に、どこかに回っていくというようなことは言いませんでしたか?」
大事な質問だった。
「いや、それは聞きませんでした。ぼくらは劇団の前で別れたんですがね、その時も、何もそんなことは言いませんでした」
「宮田さんの家はどこですか」
「あいつは駒込のアパートにいるんです」
「駒込?」
それは、宮田邦郎が死んだ場所と正反対のところだった。やはり、彼は世田谷付近に必要な用事があって行っていたに違いなかった。
「その時の宮田さんの様子はどうでした?」
「別段、変わったことはありませんでしたよ。普通のとおりです。あっ、そういえばこんなことを洩らしていました。今夜、銀座である人に会わなければならないが、弱ったな、と洩らしていました」
宮田邦郎は、やはり最後まで今西に成瀬リエ子のことを話すのが苦になっていたのだ。
「つかぬことをうかがいますが」
と今西は、今度は杉浦秋子に顔を向けて、
「こちらの女子事務員で成瀬リエ子という方がおられましたね?」
と言った。
「ええ」
と、杉浦秋子は深くうなずいて、
「物静かな、気だてのいい子でしたけど、急に、自殺してしまいましてね」
「その自殺の原因ですが、杉浦さんには何かk心当たりはありませんか?」
「いいえ、それなんですよ。わたしもね、ふしぎだと思って団員に聞いたんですが、みんな事情を知らないんです。わたしは、成瀬さんを直接にはよく知っていないので、よくわかりませんが、事務所の人が知っていやしないかと思って聞いてみたんです。でも、みんな心当たりがないと言うんですよ」
「失恋自殺じゃないでしょうか?」
「さあ」
杉浦秋子は微笑んだ。
「わかりませんわ。せめて、わたしに遺書でも残してくれたらよかったのですが」
「妙なことをうかがいますが」
今西は聞いた。
「成瀬リエ子さんと宮田邦郎とは、仲がよかったということはありませんか?」
「さあ、そんなことはないと思いますわ・・・・。ねえ、そんな話聞いたことがないわね?」
杉浦秋子は傍に立っている若い俳優を振り返った。すると、彼は薄ら笑いを浮かべた。
「いえ、実は、そういうことも、噂にはのぼっていました」
「何ですって?」
杉浦秋子は目を光らせた。
「いえ、二人が特別に仲が良かったという意味ではないんです」
口をすべらせた男優は弁解するように言った。
「成瀬さんの方はそうでもなかったようですが、宮田君の方は相当熱心なようでしたよ。それは、われわれにも目についていました」
「げえ、呆れたわ」
杉浦秋子は顔をしかめた。
この説明は今西を納得させた。彼は前に成瀬リエ子のアパートの下で、口笛を吹きながらうろついている宮田邦郎を見ている。その印象の限りでは、宮田の方が成瀬リエ子に執心していたというのはわかるのである。
だが、成瀬リエ子はあきらかに失恋的な文章を綴って死んでいる。
その相手が宮田邦郎でないことは確かだ。すると、成瀬リエ子が死を決するほどの心を寄せていた相手は、いったいだれだろうか。
今西は、ここで成瀬リエ子に恋人があったかどうかを聞いた。
「さあ、そういうことは、なかったんじゃないでしょうか。まあ、ぼくらにはよくわかりませんが」
と、俳優は答えた。
「成瀬君は、性格的には地味な方でしてね。いま言った宮田君の場合でも、相手にしなかったと言った方が正しいでしょう。もし、彼女の自殺が失恋となると、われわれの知らない人物になりますね」
「そうね、成瀬さんは俳優ではなく、事務員ですから、わたしもよく知らないんだけれど、そんな恋人があったという様子は見えなかったわね」
杉浦秋子も口を添えた。
劇団の誰もが知っていない成瀬リエ子の恋人 ──。
それこそ今西が知りたい蒲田殺人事件の犯人だった。
2025/04/29
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