~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
変 事 (十)
舞台には、緋色のカーテンがおりていた。
装飾といえば、その中央に奇怪な形の彫像が置かれてあるだけだった。それは、雪が降ったように真っ白い。白と緋色との対照は、こよなく強烈に見えた。
彫像のかたちを、言い当てるのは、たいそうむずかしい。洞窟かと思えば、そうではなく、宇宙の形象かと思えば、それとも違っているし、荒野になだれ落ちた巨木の根かと思えば、それとも言い難かった。要するに、形そのものがないと言っていい。形象の観念は、前衛彫刻には不必要なのだ。
彫像と言ったが、これは、新しい前衛生け花なのである。“ヌーボー・グループ”の一人の彫刻家が、盟友の和賀英良のために、今夜のリサイタルの「舞台」を飾ったのである。
音楽会を想像する人間には、これが演奏会とはとうてい思えなかった。なにしろ演奏者が一人もいないのである。声は、その彫像を置いたカーテンの奥から聞こえているのだ。
演奏の出口は、しかし、中央だけではなかった。観客の頭上かも、脚の下からも、押し包むように音が迫って来る。これは立体的な効果のため、それぞれの位置にスピーカーが取り付けられてあるのだった。
音楽は奇怪な音を、この××ホールの聴衆の頭上に流していた。いや、この言い方は適当でない。音楽は下の方からも湧き上がっているのだから。
聴衆は解説書を読んでいた。そのことによって作曲家の意図を知り、現在流れている音楽を理解しようと努力していた。
聴衆は多かった。ほとんどが若い人ばかりで占められている。ここでは、深刻そうに頭を垂れて瞑目している顔はない。古い、高名な音楽を聞くのではなった。譜面を追う既成の鑑賞は必要でないのだ。新しい音楽が、今やここに聞こえている。
曲名は「寂滅」というのだった。釈迦が、入寂する時、あらゆる生物が慟哭し、天地が、哭いたという説話が、この「音」のモチーフらしい。和賀の今夜のリサイタルでは、これが最後の番組になったいた。
その音色は、あるいは唸り、あるいは震え、あるいは喚き、あるいはたゆたった。それが強く、弱くつづくのだ。金属性の音も、人の哄笑に似た声も、そこでは分解され、綜合され、緊迫し、弛緩し、休止し、高潮していた。
聴衆は、うっとりとこの音楽に聞き入っているとは言いかねた。どの人間も、新しい音楽を理解しようとして顔をしかめ、肩を張っていた。
聞いていると、難解だが、たいそう新しさがあるように感じられた。あたかも理解を越えた抽象画の前に立たされたような、当惑と無知と爽快さとが、どの表情にも交錯していた。
知的で、重苦しい音楽会だった。人々は耳よりも頭脳の労働に疲労した。理解しがたいという表情は、ここでは現してはならないのである。そのような点で、聴衆のだれもが、この音楽の前に劣等感に陥っていた。
音楽は終わった ──。
盛んな拍手が起こった。舞台にきらびやかに並んだオーケストラのいないのが、その拍手の行方を当惑させたが、やがて、賞賛の相手が舞台の右側から現れた。黒い背広を着た和賀英良だった。
2025/04/30
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