~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (上)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
変 事 (十二)
『和賀英良の作品発表会を聞いた。聴衆の顔には、あいかわらず戸惑った表情が多い。無理もない。舞台には一人の演奏家がいるわけではなく、楽器が一つ置かれている「のでもない。あるのは、証明と「、抽象彫刻だけである。音はスピーカーによって、頭上や、背後や、足もとから耳に圧縮される。ミュージック・クンクレートは、完全に弦楽器や管楽器の世界と縁を切った。そこにあるのは、真空管の発信音による音階の制作であり、磁気テープによる人工的な調整 ── リズム、強弱、漸増、漸減、衝動などの組織・構成である。作曲家の精神的生産が、電子工学という物質的生産手段に結合するのである。在来の管弦楽器に得られない音色を、この方法で追求し、その豊かな素材を表現として造型する上に、果たして、その理念が追いつくかどうかが目下の問題である。聴衆の顔はそう言いたげである。前衛作曲家のグループは「、理論理論と言っているが、音楽のすべての主要なパラメーターにおける組織的変奏の作曲という思想は、作曲家の理論や着想とは別個のものだ。この新しい前衛的な手法が、単に演奏家を要求する理由がなくなっていまったという副次的な問題を、皮肉にも作曲家自体の観念不在に置き換えそうである。少なくともその危険はある。
和賀英良の今度の発表会を聞いてこの危険を感じるのは、ひとりぼくだけであろうか。感覚的な発想という精神は、工学的技法という工業と分離し、観念が工業技術に振り回され禹る感想を、ここでもぼくは持たざるを得なかった。電子音楽によって芸術的な表現が不可能だ、という先験的な理由はないにしても、完全に素材を駆使するまでの純粋芸術的な芸術以前の問題に、彼らはもう本気に取り組まねばならないのではないか。つまり、現在において、彼らはあまりに数理的操作に気を奪われすぎて、観念がひたすらその後を奉仕する傾向が見られる。現実に内在する内的感覚を、この新しい音楽法則に帰納させるということは容易な仕事ではない。しかし、だからといって、現在の在り方を安易に受け入れることは出来ない。ぼくの言い方は少しきびしすぎるかも知れないが、それは常に先駆者に投げつけられる過酷な栄光である。和賀英良はこの発表会でも、そのモチーフを、仏教説話や古代民謡などの東洋的瞑想、あるいは霊感的思想に求めた。しかし、その着想的衣裳の古めかしさは常に新しきものが古典に循環するという通俗的現象をまぬがれなかった。しかも、その音列の設定は人工的秩序に従っているにみで、内的意欲とはほど遠いのである・・・・』

今西栄太郎は、ここまで辛抱して読んで、あとを投げた。新聞にのっている活字は、まだ、三分の一残っている。しかし、とても終わりまで読みつづける根気はなかった。
彼には、何のことかさっぱりわからない。食卓を前にしてやっとそこまで読む気になったのは、関川重雄という、この論者の顔写真が目にふれたからだった。ついでに、この論者が批評している和賀英良というのも、今西には無縁ではない。
いつぞや、東北に出張した時羽後亀田駅で見かけた若い連中の仲間だった。あの時。吉村刑事がその名前を教えてくれた。颯爽とした彼らの若い姿が、今でも目に浮ぶ。そうだ、この写真のとおりの顔だった。
若いのに、よっぽど頭がいいにちがいない。今西などには理解を越えた文章だった。
今西は、残りの飯を口に入れ、茶碗に茶を注いだ。
2025/05/01
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