~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅵ』 ~ ~

 
== 『 永 遠 の 0』 ==
著 者:百田 尚樹
発 行 所:㈱ 講 談 社
 
 
 
 
 
ガダルカナル (十九)
話の後半から姉がずっと嗚咽おえつを漏らしていた。
井崎はそんな姉をじっと見つめていた。その目からも先程から涙が流れていた。そして静かな口調で言った。
「実は、私はガンです」
ぼくは頷いた。
「半年前に、医者からあと三ヶ月と言われました。それがどうしたわけは、まだ生きています」
井崎はぼくたちの方をまっすぐに見て言った。
「なぜ、今日まで生きてきたのか、今、わかりました。この話をあなたたちに語るために生かされてきたのです。ラバウルで別れる時、宮部さんが私にそんな話をしたのは、いつの日か、私が宮部さんに代わって、あなたたちにそいの話をするためだったのです」
その時、井崎の孫が大きな声で泣き出した。彼は」人目も」はばからず号泣」した。鈴子と看護婦も何度もハンカチで目を押さえていた。
尾崎は窓の外の空を見つめて言った。
「小隊長、あなたのお孫さんが見えましたよ。二人とも素晴らしい人です。男の子はあなたに似て、立派な若者です。小隊長 ──、見えますか」
姉は両手で目を押さえた。井崎は目を閉じて、体をベッドに倒した。
「すみません。少し疲れました」
「大丈夫ですか」
すぐに看護婦が駈け寄った。
「大丈夫です。でも、少し休みます」
看護婦がぼくたちに目で合図した。
「有り難うございました」
ぼくはそう言って立ち上がった。井崎にはしかし、ぼくの言葉が聞こえていないようだった。本当に気力を振り絞って話してくれたのだ。
ぼくは涙を拭いている姉に肩に手を置いた。姉は黙ったまま頷いて立ち上がった。
「少し疲れたのでしょう。しばらく安静にしてもらいます」
看護婦は言った。井崎はすでに安らかな顔で眠っていた。
ぼくは眠っている井崎に深く頭を下げて、病室を後にした。
ロビーまでやって来た時、鈴子とその息子がぼくたちを追いかけて来た。
「お父さんのあんな話を聞いたのは初めてです」
「俺、おじいちゃんのあんな話聞いたの初めてだった」
彼の目からはまだ涙がこぼれていた。
「おじいちゃん、ひでえよ。孫に、昔話なんか一つも語ってくれなかった。縁側で、おじいちゃんの話を聞きたかったよ」
そして彼は泣きながら母の方を向いた。
「オフクロ ── ごめんよ、俺 ──」
最後は何を言っているのかわからなかった。そんな息子を見て鈴子も泣いていた。
「今日は、私たちにとっても貴重な日になりました。ありがとうござうます」
鈴子は涙を拭くと、深々と頭を下げた。
「父があの戦争で生きて帰ってこられたのは、宮部さんのお陰だったのですね父の話を聞いて感動いたしました。本当に有り難うございました」
ぼくはどう言っていいかわからず、頭を下げるだけだった。
自分が恥ずかしかった。理由はわからない。ただただ恥ずかしかった。最後に井崎が言った「あなたに似て立派な若者ですよ」という言葉が胸に突き刺さっていた。
病院を出るまで姉はずっと黙っていた。ぼくも一言もしゃべらなかった。
通りに出て、しばらく歩いてから、姉はぽつりと言った。
「おじいさんは素晴らしい人だったのね」
「うん」とぼくは答えた・「そう思う」
「おじいさんは、お母さんに会えたのかな。おばあちゃんに会えたのかな?」
「わからない。ずっと戦場にいたとも思えないし ──」
「調べたらわかるかな?」
ぼくは答えようがなかった。」
「私、真剣に調べたいな」
「今までは真剣じゃなかったのかよ」
ぼくの言葉は無視された。
地下鉄の入口で、姉と別れた。二人の乗る地下鉄は逆方向だった。
別れ際に姉は言った。
「おばあちゃんはおじいさんにそこまで愛されて本当に幸せだったと思うわ」
姉がまた涙目になっているのが見えた。しかしぼくが何か言おうとする前に、姉は「じゃあね」と言って階段を下りていった。
ぼくは姉の言った言葉を反芻はんすうしていた。祖母は本当に幸せだったのだろうか。祖父に愛されて幸せだったのだろうか。
2024/10/27
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