二月の終り、私たちはすべての教育訓練を終えました。わずか一年足らずの短い教育期間でした。かつての予科練の教育期間が二年以上でしたから、いかに私たちが速成だったかがわかります。
その夜、私たちは一枚の紙を渡されました。そこには「特攻隊に志願するか」という質問が書かれていました。提出は翌日と言われました。
ついに来るべきものが来たか、と思いました。しかし実際に紙を渡された時の衝撃は自分の覚悟をはるかに上回る大きなものでした。
私は予備学生として入隊した時から死ぬことは覚悟していました。そのことは同期の友人たちとも何度も語りあったことです。ただそれはあくまで命を賭けて戦った結果としての死でした。必ず死ぬと決まった特別攻撃隊に志願することは、私の覚悟を越えたものがありました。
しかし、前年から特攻が実施されることは知っていましたから、特攻志願書を前にあわてふためくということはありませんでした。十九年秋のレイテにおける敷島隊のことは新聞紙上などで大々的に発表されていましたし、その後も神風特別攻撃隊のことは連日、新聞や大本営発表で報じられていました。だからもしかしたらという気持があったのもたしかです。
── 初めて特攻隊のニュースを耳にした時の衝撃ですか? はっきり言って、それほどの衝撃はなかったように思います。ただ、気持は引き締まりました。
おそらくその頃は、人間の死に対して鈍感になっていたのでしょう。新聞でも「玉砕ぎょくさい」という文字は珍しくありませんでした。玉砕の意味ですか? 全滅という意味です。ひとつの部隊総員が死ぬことです。全滅とおいう意味を「玉砕」という言葉に置き換えて、悲惨さを覆い隠そうとしたのです。当時、日本軍はそういう意味の言葉の置き換えをあらゆるもにしていました。都会から田舎に避難することを「疎開」と言い、退却を「転進」と言いました。しかし「玉砕」はもっともひどい例だと思います。そこには死を美しいものに喩えようとする意図があります。やがて新聞紙上に「一億玉砕」という言葉も躍るようになります。
連日、新聞などでそうした多くの死を見ていると、命がどんどん軽いものに思われてきます。毎日、戦場で何千人という人が亡くなっている中で、十人ほどの特別攻撃隊が出たところで、それほどの衝撃はありませんでした。
しかし、いざ自分がその身になってみると、事態はまったく違ったものになります。人間というものはつくづく自分身勝手なものだと思います。
私は父母のことを考えました。私のことを何より可愛がってくれた両親のことを。そして十歳違いの妹のことを考えました。私が死ねば、父母は耐えることが出来ても、妹は泣きじゃくるだろうと思いました。妹は私のことを誰よりも愛していました。「お兄さまが一番好き。お父さまよりもお母さまよりも、お兄さまが好き」というのが妹の口癖でした。
実は私の妹は少し知能に障害があったのです。そうした子供の多くがそうであるように、非常に純真で人を疑うことのない子でした。それだけに不憫ふびんでいじらしくもあったのです。
もし私に恋人か妻がいれば、また違ったことを考えたのでしょうが、幸い私は独身でした。また思いを寄せた女性もいませんでした。だからその時、父母と妹のことだけが私の心に重くのしかかっていたのです。
父母は耐えてくれるだろう。そして私の親不孝を許してくれるだろう。祖国を守るために死んでいったことを誇りに思ってくれるだろう。しかし妹には申し訳ない思いで一杯でした。また父母がいずれ年老いて亡くなった時、妹を助けてやれる人がいなくなる。それが心残りでもありました。
私が志願書を前にどういうふうに心を決めたのかは、何も覚えていません。心の深いところで、はっきりとした覚悟をもって決断したのかどうかさえ、今となっては思い出せません。
明け方近くに「志願します」という項目に丸印を書き入れました。多くの者が志願すると書くはずだという意識が書かせたように思います。私一人が卑怯者ひきょうものになりたくなかったのです。名前を書く時に、文字が震えないように気をつけたのを覚えています。こんな時も、そんなことを考えたのです。
飛行学生たちは全員「志願する」を選びました。しかし後に、当初、何人かは「志願しない」としたらしいと聞きました。志願しないと書いた人たちは、上官に個別に呼ばれ、説得を受けたようです。当時の日本の軍隊における上官の説得というのは、これはもうほとんど命令と同じです。逆らうことは不可能でしょう。
私たちを意気地なしと思いますか。しかしこれは今日こんにちの自由な空気に育った人には理解出来ないでしょう。いや現代でも、果たして会社や組織の中で、自分の首をかけて上司に堂々と「NO」が言える人たちがどれほどいるのでしょうか。私たちの状況はそれよりもはるかに厳しいものでした。
「志願せず」と書いた男が何人かいたらしいと聞いた時、私は、どうせ説得されて志願させられるのだから、初めから志願すると書けばよかったのにと思いました。
しかし今、確信します。「志願せず」と書いた男たちは本当に立派だった ── と。
自分の生死を一切のしがらみもなく、自分一人の意志で決めた男こそ、本当の男だったと思います。私も含めて多くの日本人がそうした男であれば、あの戦争はもっと早く終わらせることが出来たかも知れません。
彼らを志願させたのはもしかしたら上官ではなく私たちだったのかも知れません。
そういう私たち自身、決して喜んで死を受け入れたわけではありません。しかしあの時代はそれ以外に選択の余地はなかったのです。軍部は特攻隊を志願しない者を決して許さなかったでしょう。実際にそうした噂も聞きました。他の練習航空隊で頑として特攻を志願しなかった者は、前線の陸戦隊に送られたり、あるいはほとんど絶望的な戦いに投入された、と。噂ですから、どこまでが真実かわかりません。けれどもあの時代を生きた私には、真実に近いものがあったと思います。
あの頃の軍部は、兵隊の命など何とも思っていなかったのです。先程、特攻隊で散った若者は四千四百人と言いましたが、沖縄戦での戦艦「大和」の海上特攻では一度の出撃で同じくらいの人が命を失ったいます
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