~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
模 索 (十)
田園調布の和賀英良家は、戦前からの建物で、あまり広い家ではない。
もとも、内部は彼の気に入ったように改造されている。二年ばかり前に買ったものだった。外面から見ると、古びていて、近くの広壮な邸宅にくらべると、いかにも貧弱に見えた。
オフ・ホワイトのスーツを着こなした田所佐知子が、玄関のベルを押すと、五十ばかりの手伝いの女が出て来た。
「おや、いらっしゃいまし」
中年女は、佐知子に丁寧に頭を下げた。
「今日は」
佐知子は軽く会釈して、
「英良さん、いる?」
「いらっしゃいます。どうぞ」
やはり古い玄関に入った。それからすぐ廊下がつづき、増築した別棟に案内した。別棟といっても、坪数にすると五坪にも足りない。だが外側はコンクリートの壁になっていた。窓が小さい。
手伝いの女は、そこまで行かないうちに、据えてあるインターフォンを押さえた。
「ただ今、田所さまがいらっしゃいました」
声が返った。
「こちらへ通してくれ」
廊下の突き当りが、その別棟のドアである。手伝い女は、軽くノックしてドアをあけ、中に入らないで、佐知子の脇に退き、
「どうぞ」
と招じた。
佐知子は内部に入った。
ここは、和賀英良の仕事場である。机と本棚があるのは普通のとおりだが、変わっているのは、半分仕切られた向う側に機械類が置かれてあることだった。まるで放送局のスタジオの調整室のように、さまざまな器具が、ごたごたと並んでいる。
和賀英良は、それらの機械を背後にして、テープレコーダーをかけていた。
「やあ、いらっしゃい」
和賀は、テープレコーダーを止めて立ちあがった。
セーターの衿からのぞいた、しゃれたチェックのシャツは、先日、佐和子が見立てて贈ったものである。
「今日は」
しゃれた椅子が三四脚、その調整室めいた区切りの外に置いてある。
そこは簡単なテーブルが置いてあり、スタジオの談話室みたいな格好になっていた。
「お仕事だったんでしょう?」
「いや、いいんです」
和賀は、佐知子に近づくと、その肩を抱いた。
佐知子は顔を仰向け、許婚者の接吻を長いこと受けていた。
外からの声は聞こえない。
というのは、この部屋は彼の音をつくる特別な仕事場だから、すべての壁が完全な防音装置になっていたからである。
「お仕事の途中、お邪魔して悪かったんじゃない?」
接吻のあと、彼女はハンドバックからハンカチを取り出して、男の唇からルージュをぬぐってやりながら言った。
「いや、ちょうどひと休みしようと思っていたところです。まあ、お掛けください」
椅子もテーブルもしゃれたデザインだった。外見のみずぼらしい家にもかかわらず、室内の装飾は贅沢なのだ。
佐知子が煙草を口にくわえた。和賀は、すばやくライターを鳴らした。
「もし、お仕事の都合がよろしかったら、いっしょに外に出てみません?」
「ええ、それは結構ですが、何かあるのですか?」
「父がいま?風園に行っています。お客さまをしているんですけれど、あと、三十分もしたら、わたしたちにご馳走してくれると言っていますわ」
「そりゃあ、ありがたいですな」
和賀は微笑した。
「ご馳走ならどこへでも出掛けますよ」
「そう、よかったわ」
「しかし、いま何時です?」
「四時ですわ。何かご予定がございますの?」
「いや、そのあとのことを考えているです。久しぶりだから、踊りにでも行きましょうか?」
「ほんとにしばらくぶりですわ」
「ちょっと待ってください。あとのくぎりをつけます」
和賀は、テープレコーダーの方へ戻った。
「何ですなの?」
「いま構成してみたものを再生しているんです。一部分ですがね、聞いてくれますか?」
「ええ、ぜひ、今度のテーマは何ですの?」
「人間の生命感、といったものを出したいと思っています。そのため音の持っていっるエネルギーといったもの、それを集成してみたんです。たとえば、群衆がラッシュアワーに国電に殺到している時の声だとか、強風のうなりだとか、工場の轟音、それも、機械から直接ではなく、マイクを工場の建物のすぐ横の地面を掘って深くさし入れ、振動といったものまで録音してみました。これを分解したり複合したりして調子を整えました。うまくいったかどうか、一つ聞いていただきましょうか」
和賀はテープをまわした。
一種異様な音が出はじめた。それは、金属性と思えるし、鈍い腹に響くような音でもあった。管弦楽器というこれまでの媒体物を使わずに、新しい音を造るというのが作曲家和賀英良の主張であった。聞いたかぎりでは、普通の人間にはメロディーも美的官能も感じられなかった。種々雑多な音が、機械的な操作によって、のろく、早く、強く、弱く、長く、短く、いろいろな変化で波打って出るのだった。そこには普通の音楽的な陶酔はなかった。無秩序で晦渋音響が、聴者の知能を意味あり気に刺激していた。
「どうです」
和賀英良は、エンジニアの研究室のように並べられた機械類を背に、佐知子を眺めた。彼女はうっとりと聞いていたが、すぐ称賛した。
「すてきだわ、それ、きっといいものになりそうよ!」
和賀英良は、仕立てのいいグレイの背広に着替えると、佐和子と並んで表に出た。
上背があって肩が広いので、背広がよく似合った。表には佐和子の車が待っている。
「帰っていいわ」
と、彼女は自分の運転手に言った。
「わたしは、英良さんの車に乗せていただくから」
運転手はおじぎをして、彼女の前から走り過ぎた。
和賀英良は、ガレージの方へ行って、車を運転してきた。中型車である。
佐和子の前にとめて、
「どうぞ」
と、ていねいに座席のドアをあけた。
「わたし、英良さんの横に乗せていただくわ」
和賀英良は、運転席の横のドアを改めて開いた。
街が二人の前を流れて行く。
「英良さん。今度、いっしょにドライブしたいわね」
「そうですね。気候はいいし、行ってみたいですな」
和賀はハンドルを動かしながら、目を正面に向けて言った。
「奥多摩なんか、きれいなそいうだわ。でも、英良さんはお忙しいんでしょう?」
「いや、時間の都合をつけますよ。今度、予定を考えて約束しましょう」
「うれしいわ」
2025/05/12
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