~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
模 索 (十二)
三人が座敷を出ると、隣りは広い土間になっていて囲炉裏がある。炭火がおこって、その上に串刺しになっている牛肉や豚肉が並べられてあった。女中二人が世話をしていた。煙がもうもうと天井まで立ちのぼっている。
「おいしそうね」
囲炉裏を挟んで三人は坐った。
「和賀君」
「はい」
「乾杯といこう」
三人はコップを上げた。田所重喜はコップの中に日本酒、和賀英良はスコッチの水割り、佐和子はピンク・レディーだった。
「和賀君」
「はあ」
「どうだね、仕事の方は?」
「ぼつぼつ、やってます」
「お父さま」
佐和子は横から言った。
「英良さん、とっても勉強家なのよ。わたしがお誘いしたときもお仕事なすってらしたの」
「いや、ちょっと、今度の新しい曲の実験をやっていたんです」
「電子音楽というのは、わしにはよくわからないが、今度、一つ、君の仕事場を見学させてもらおうかな」
「お待ちしおております」
「お父さまったら、全然、音痴よ。音楽界にお誘いしても、ちっとも出てこないの。電子音楽なんか聞いても、きっと、チンプンカンプンだわ」
「チンプンカンプンといえば、この間、君の音楽批評が新聞に出ていたね。わしは読んだが、あれこそ全くわからなかった」
「関川さんが書いたんですわ」
と、佐和子が注釈した。
「関川さんは、英良さんとヌーボー・グループっていうのを組織しているんです。そして、若い人たちで新しい芸術運動をやっているんですのよ」
「そうか、あの批評はほめているのかな、けなしているのかな」
「むしろ、けなしているほうでしょう」
と、和賀が串刺しの肉を噛みながら答えた。
「関川さんは、辛辣な若手の批評家ですわ。近ごろ、ぐんぐん伸びてきたんです。でも、わたしからいうと、演技たっぷりで。のしてきた最初も、先輩を前において、その人を遠慮なくこきおろしたものですから、マスコミに注目されたんです。こんどの、さの批評だって、関川さんの演技がいっぱいですわ。つまり、自分の仲間でも、おれの筆にかかってはこうなんだぞ、という力みが見えるんです」
田所重喜は、にこやかに聞いていた。
「そういうものかな」
彼はうなずいた。
「いや、政界にもそういうことがあるよ。どこの世界も同じだな」
「やっぱり、人間だからでしょうか。でも、わたしは芸術家の方が、もっと露骨なような気がしますわ」
「わしには、芸術家のことはよくわからんが、いろいろ、あるもんだな」
元大臣は鷹揚だった。
「ところで、和賀君」
と、そのふくよかな顔を音楽家に向けた。
「君のアメリカでの予定は、だいたい、見通しはついたかね?」
「はあ、だいたい、具体化してきたように思います」
「十一月に発てそうかね?」
「はい、大丈夫のようです」
「いろいろ忙しいね」
「はあ、なにかと、準備がありますから。アメリカにジョージ・マッキンレイという男がいまして、このマッキンレイが、やはり、ぼくと同じように、各国の前衛音楽家と連絡しあっていて、そういう意味では、アメリカでは、彼が中心になっています」
「なるほど」
「その男と連絡がつきました。向うの音楽会といいましても、ニューヨークでの檜舞台ですが、そこで、ぼくのリサイタルをやることに決まりました。そのため作品を、少なくとも十曲ぐらいは制作しなければならない。今、それを懸命にやっているわけです」
「そこで認められると、どうなるの?」
「当然、向うのレコード会社にも吹き込むことになるし、そういう、アメリカの高名な劇場でリサイタルをやることになると、一流の批評家の認識も得られるわけです。その結果、うまくいけば世界的な評価が得られるのではないかと思っています」
「まあ、しっかりやってくれたまえ」
田所重喜は将来の女婿を激励した。
「ぼくも、出来るだけの援助はするよ」
「お父さま、わたしからもお願いしますわ」
佐和子は頼んだ。
{よしよし。さて、わしはこれからほかの会に行かなければならん」
田所重喜は腕時計を眺めて、
「では、お先に失敬するよ」
「そう」
若い二人は立って老人を亭の出口まで見送った。
「行ってらっしゃい」
「君たち、今日はこれからどこかに行くの?」
「ええ、いろいろ計画がありますの」
「そうか、遅くなるのかい?」
父親らしい目つきになった。
「いいえ、十時ごろまでに帰りますわ」
──?風園から出ると、二人はまっすぐに赤坂のほうへ向かった。
ナイトクラブは、まだ客がそれほど混んでいなかった。ちょうど、ショウがあってフィリピン人が三人、マイクの前で歌いながら手拍子をとって躍っていた。
それがすむと、ホールが明るくなる。バンドがダンス曲を奏しはじめた。
和賀は佐和子に手を差しのべて、ホールに進んだ。曲は早いルンバだった。手をつなぎ、器用に足を動かしながら、佐和子は幸福そうに和賀に笑いかけていた。二人の体が密着したとき、彼女は、和賀の耳もおでささやいた。
「しあわせだわ」
2025/05/13
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